2024年8月9日、佐賀支部の60期レーサー・上瀧 和則選手が、8月8日に日本モーターボート競走会に引退届を提出したことが報じられました。
上瀧 和則選手といえば、長年、A級を維持してきましたが、2011年3月に日本モーターボート選手会副会長に就任したことで、4月以降のレース斡旋をすべて削除し、2012年6月26日に選手会会長に就任すると、2012年前期にB2級への降級を許しました。
2020年5月からは会長兼任のままレースに現役復帰を果たして、A級に返り咲いたものの、全盛期のような活躍は見られず。
2024年7月3日に大村競艇場で開催された一般戦「BTSオラレ志布志開設15周年」初日の第8レースで、コンマ01のフライングを喫して、翌日に途中帰郷すると、それまで入っていたレースの斡旋を全削除したことで「今までと様子が違う」「どこか調子が悪いのでは?」と心配されていました。
60期としてデビューした上瀧 和則選手にとって、2024年はデビューから37年戦い続けた記念の年であり、33年ルールが適用される年。
2024年後期は勝率が6.28となったことでここまで徐々に上昇していましたが、今期の成績だと2025年前期は勝率5.37で低下するものの、引退勧告を受けるような成績ではありませんでした。
このことから、引退勧告ではなく、一身上の都合やモチベーションの低下といった理由で潔く身を引く決断をしたのでしょう。
上瀧 和則選手の基本情報・同期の注目選手・引退勧告の水準から33年ルールまで、近年の成績などをから考え得る引退理由について考察していきたいと思いますので、ぜひ最後までご覧ください。
上瀧 和則選手の基本情報
名前 (フリガナ) | 上瀧 和則 (ジョウタキ カズノリ) |
登録番号 | 3307 |
生年月日 | 1968年5月20日 |
身長 | 166cm |
体重 | 52㎏ |
血液型 | A型 |
支部 | 佐賀 |
出身地 | 佐賀県 |
登録期 | 60期 |
級別 | A2級 |
デビュー日 | 1987年5月 |
最終出走日 | 2024年7月3日 |
引退日 | 2024年8月8日 |
上瀧 和則選手は1968年生まれ、佐賀支部所属のA2級選手です。
徹底したイン取りや冷酷なまでのレース内容、そして髭を生やした強面の特徴から付けられた愛称は「非情のワイルドボーイ」と「エースのジョー」。
レ-ススタイルは妥協なきコース取りから果敢に攻めるイン戦速攻を得意としており、スタートの良さに定評があります。
上瀧 和則選手いわく、理想の勝ち方は「外枠から前付けして、80まで(スタートまでの距離)流れ込んでもインから逃げること」だそうです。
ちなみに、2020年5月13日には息子の上瀧 絢也選手(5124・126期)が地元・津競艇場でデビューを飾っており、一般戦を中心に活躍を目指して戦っています。
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上瀧 絢也選手ってどんな選手?
名前 (フリガナ) | 上瀧 絢也 (ジョウタキ ケンヤ) |
登録番号 | 5124 |
生年月日 | 1996年4月14日 |
身長 | 169cm |
体重 | 52㎏ |
血液型 | O型 |
支部 | 佐賀 |
出身地 | 佐賀県 |
登録期 | 126期 |
級別 | B1級 |
デビュー日 | 2020年5月13日 |
上瀧 絢也選手は1996年生まれ、佐賀支部所属のB1級選手です。
2020年5月13日に地元・津競艇場でデビューを飾ると、フライングの多さから2世レーサーとして悪い意味で注目を集めたものの、デビューから1年9か月後の2022年2月15日に初勝利を手にしています。
近年は徐々に活躍する機会が増えているため、今後の成長に期待したい選手だと言えます。
上瀧 和則選手の過去戦績
日付 | レース名 | レース場 | グレード | 戦績・概要 |
1987年5月 | 一般戦競争(タイトル不明) | 唐津 | 一般 | デビュー |
1987年6月 | 一般戦競争(タイトル不明) | 芦屋 | 一般 | 初勝利 |
1989年4月 | 一般戦競争(タイトル不明) | 芦屋 | 一般 | 初優勝 |
1989年8月8日 | モーターボート記念競走(ボートレースメモリアル) | 福岡 | SG | SG初優出 |
1991年1月 | G1 開設37周年記念 全日本水の王者決定戦競走(全日本王者決定戦) | 唐津 | G1 | G1初優勝 |
1996年10月10日 | 全日本選手権競走(ボートレースダービー) | 福岡 | SG | SG初優勝 |
2014年8月14日 | 唐津市長杯 お盆特選 | 唐津 | 一般 | 約3年5ヶ月ぶりにレースに復帰 |
2020年5月11日 | 日本財団会長杯争奪 準優進出バトル | 下関 | 一般 | 「史上初のレースを走る選手会長」として本格的に現役復帰 |
2022年1月27日 | マンスリーBOAT RACE杯 | 津 | 一般 | 現役ボートレース選手会長として史上初の優勝 |
2024年7月3日 | BTSオラレ志布志開設15周年記念 | 大村 | 一般 | ラストレース |
1987年5月、唐津競艇場の一般戦で60期生としてデビュー。
翌月には唐津で初勝利を手にして、デビューからたった2期(=1年)でA級に昇級を果たしました。
1989年4月、芦屋競艇場で開催された一般戦競争で初優勝を飾り、1991年1月にG1初優勝。
さらに1996年10月に福岡競艇場で開催された「全日本選手権競走(ボートレースダービー)」では、同じ九州のライバルだった植木 通彦元選手に競り勝ちSG初優勝を達成したことで「佐賀支部の不動のエース」として君臨。
37年間の選手生活での出走数は5,455走で生涯勝率は7.23。
通算237優出で優勝は85回、通算1,756勝を挙げて、生涯獲得賞金は17億1,470万1,102円という記録を残しています。
現役生活最後のレースは、2024年7月3日に大村競艇場で開催された一般戦「BTSオラレ志布志開設15周年記念」初日の第8レースでした。
- 【3307 上瀧和則】「瓜生と一緒に賞金王ワンツーして来ます!」2005.11.22~27 芦屋SG第8回競艇王チャレンジカップ
獲得したSGタイトル
- 第43回 全日本選手権(ボートレースダービー) <福岡競艇場>
- 第8回 グランドチャンピオン決定戦 <宮島競艇場>
- 第31回 笹川賞(ボートレースオールスター) <尼崎競艇場>
- 第8回 競艇王チャレンジカップ競走 <芦屋競艇場>
上瀧 和則選手の師匠は古川 文雄選手
上瀧 和則選手の師匠は、同じ佐賀支部所属、24期の元競艇選手・古川 文雄さんです。
名前 (フリガナ) | 古川 文雄 (フルカワ フミオ) |
登録番号 | 2170 |
生年月日 | 1949年3月14日 |
身長 | 171cm |
体重 | 56㎏ |
血液型 | B型 |
支部 | 佐賀 |
出身地 | 佐賀県 |
登録期 | 24期 |
引退時の級別 | B2級 ※ラストラン時点での級別はA1級 |
デビュー時期 | 1967年11月 |
最終出走日 | 2002年5月19日 |
引退時期 | 2002年5月 |
古川 文雄選手は1949年生まれ、佐賀支部所属のB2級選手。
「大村のゴッドファーザー」の愛称でも親しまれたレジェンドレーサーで、最初に弟子として迎え入れたのが上瀧 和則選手でした。
残念ながら、2002年5月に53歳で引退を表明しています。
1967年11月に24期としてデビューを飾ると、同期ではトップの成績を誇り、SG競争でも活躍をしたレジェンドレーサーです。
1986年3月25日に平和島競艇場で開催された「第21回 ボートレースクラシック(総理大臣杯争奪 鳳凰賞競走)」では、6号艇で4コースからのカドまくりからSG初優勝を飾っています。
その素晴らしい成績から、引退直前までA級を維持し続け、さらに引退レース当時の級別は堂々のA1級。
さらに引退後の2019年には、ボートレース発祥の地・大村競艇場の『ボートレース殿堂マイスター』にも認定されるほどの輝かしい成績を残しました。
現役生活最後のレースは、2002年5月19日に福岡競艇場で開催された一般戦「日本モーターボート選手会長杯争奪戦」最終日、優勝決定戦の5着で、同期には、立山 一馬選手(2160)・新田 吉夫(2154)・田代 敏明選手(2167)がいます。
ボートレース殿堂・ボートレースマイスターとは?
「ボートレース殿堂」及び「ボートレースマイスター」は、ボートレース界で特に顕著な活躍をしたり、ボートレース界の発展に大きく寄与した「元選手」に対し、その功績を称え顕彰するために、ボートレース大村が平成19年G1名人戦開催を記念して創設したものです。
引用元:ボートレース大村 > ボートレース大村 60周年記念 > ボートレース殿堂 > 歴代競艇マイスター (omurakyotei.jp)
- 【ボートレース 競艇】思い出のレース レーサー 古川 文雄
- 佐賀師弟コンビが優出!賞金王勝負駆けの師匠古川が気迫のイン逃げ!1996.10.29 住之江G1開設40周年記念第30回太閤賞競走12R優勝戦
上瀧 和則選手の獲得賞金
長年、A級を維持するほどの実力を有する上瀧 和則選手。
2011年3月に日本モーターボート選手会副会長に就任したことで、4月以降のレース斡旋をすべて削除し、2012年6月26日に選手会会長に就任すると、2012年前期にB2級への降級を許しました。
2020年5月からは会長兼任のままレースに現役復帰を果たして、2021年後期にはA2級、2002年後期にはA1級に返り咲いたものの、全盛期のような活躍は見られず。
現役復帰後の優勝は一般戦での3回のみ。
なかでも、2022年1月に津競艇場で開催された「マンスリーBOAT RACE杯」での優勝は、現職の選手会会長が優勝したことから、史上初の快挙として当時の競艇界を沸かせるほどの大ニュースとなりました。
なお、現役最後の優勝は、2024年4月にデビュー水面の地元・唐津競艇場で開催された「第14回 領巾振山つつじカップ」。
上瀧選手の代名詞である「前付け」でイン逃げを決めて優勝を飾っており、その後も一般戦を中心に活躍を続けていました。
勝率については、2023年後期には自身の持つ最低勝率5.54を記録し、成績も振るわない状況が続いていたことが読み取れます。
そのため、もちろん獲得賞金も全盛期よりは減少していることが安易に予想できるはずです。
年度 | 級別 | 賞金ランキング | 獲得賞金 |
---|---|---|---|
2024年 | A2 | 1047位 (引退当時) | 8,380,000円 (引退当時) |
2023年 | B1→A2 | 770位 | 16,070,000円 |
2022年 | A2→A1 | 887位 | 14,630,000円 |
2021年 | B2→A2 | 607位 | 17,580,000円 |
2020年 | B2 | 1430位 | 5,960,000円 |
2011年3月~2020年4月 | B2 | 選手会の副会長・会長に就任し、ほぼ出走せず | 不明 |
2011年 | A1 | 1363位 | 5,760,000円 |
2010年 | A1 | 29位 | 51,380,000円 |
2009年 | A1 | 299位 | 22,940,000円 |
2008年 | A1 | 93位 | 31,380,000円 |
2007年 | A1 | 35位 | 47,870,000円 |
2006年 | A1 | 10位 | 89,740,000円 |
2005年 | A1 | 10位 | 121,490,000円 |
2004年 | A1 | 5位 | 142,540,000円 |
A2級ボートレーサーの平均年収は約1,800万円といわれています。
上瀧 和則選手は直近の3期がA2級だったことから、今回の比較対象はA2級レーサーの平均年収1,800万円とします。
2024年の獲得賞金額を算出対象外とした、直近3年間のデータから算出した平均年収は、約1,609万円程度。
2023年前期がB1級だったことを考慮すれば、A2級ボートレーサーの平均金額1,800万円よりやや少ない金額くらいです。
B1級ボートレーサーの平均金額が1,100万円ですから、B1級とA2級の平均額の中間よりやや多い金額と言えるでしょう。
その理由は、2023年前期がB1級だったことと、2022年以降の優勝歴が一般戦での3回のみであることです。
ただ、2021年は一般戦で5回の優出を果たしており、直近3年間の中では最も多い優出回数となったことで、獲得賞金額が前年より大幅にアップ。
そのため、最近では最も高い獲得賞金額を記録しました。
ちなみに、一般的な50代の社会人男性の平均年収は約570万円とされていますので、上瀧 和則選手の平均年収である約1,609万円は2.8倍の金額に相当します。
直近3年間の平均年収をひと月に換算すると月収が約134万円ですから、一般人とはかけ離れた高収入です。
近年は獲得賞金額が1,500万円前後で推移していたようですが、全盛期の優勝歴・優出歴のあった時期の獲得賞金額はもっと高額だったことは容易に想像できるでしょう。
ちなみに選手会の役職に就任する前、2004年から2010年までの7年間のデータから算出した平均年収は、約7,248万円程度。
A1級ボートレーサーの平均金額が3,000万円ですから、A1級の平均額の2.4倍以上の金額です。
1億円以上の賞金を獲得していた上瀧 和則選手は、間違いなくボートレース界を代表するトップレーサーだったと言えるでしょう
上瀧 和則選手は、2011年3月17日に日本モーターボート選手会の副会長の職に就きます。
そして、翌年の2012年6月から2022年6月までの10年間という長い年月、選手会会長を務めることで、ボートレーサーの労働環境の改善と競艇の人気獲得のために尽力し、業界をけん引してきました。
引退した選手が務める選手会会長の職を、現役のA1級選手が務めるというのは当時では異例中の異例の出来事。
それでも、舟券を購入するファン・開催を支える人々・そして現場で走る全てのボートレーサーがより良い環境で走れるためには何をすべきかを常に考えて、「会長職の減給」「日本モーターボート会の公益法人化」「持ちペラ制度の廃止の決定」といった改革を行った偉大な業績があります。
そのなかでも特に目立った業績が次の4つです。
- 会長職の減給
- 日本モーターボート会の公益法人化
- 持ちペラ制度の廃止の決定
- 「走る選手会長」の先駆け
また、当時の競艇界では「選手会役員に就任した選手はレースに出走しない」のが通例でしたが、上瀧 和則選手は2020年5月に”非常勤の会長”を宣言すると、「走る選手会長」としてレースに復帰。
そして、2022年1月21日から27日に津競艇場で開催された「マンスリーBOAT RACE杯」で優勝を果たし、現役選手会長として史上初、選手として10年10か月ぶりとなる優勝を勝ち取ったことで大きな話題となりました。
ほかにも、2017年には公益のために1,500万円を選手会として寄付したことが評価されたことで、天皇陛下から紺綬褒章が授与されています。
その授章式で上瀧 和則選手は『我々はお金を出すだけでなく、災害のつど、被災地へ出かけてボランティア活動を続けています。これからも毎年こうした寄付を続けていきたい』と選手会会長という立場で誓いの言葉を述べています。
日本モーターボート選手会に紺綬褒章
2017年06月19日
日本モーターボート選手会に紺綬褒章
笹川日本財団会長から伝達
昨年暮れ、1,500万円寄付
昨年12月、公益のため1,500万円を寄付した公益社団法人・日本モーターボート選手会(東京・赤坂)に天皇陛下より紺綬褒章が授与され、その伝達式が6月15日、東京・赤坂の日本財団ビル内で行われました。笹川陽平日本財団会長から褒状の伝達を受けた上瀧和則選手会長は「今後も社会のために役立つ活動をしてまいります」と誓っていました。
伝達式後、記念撮影する笹川日本財団会長(左)と上瀧選手会長日本財団は昨年6月、内閣府賞勲局から公益のため資財を寄付した団体・個人へ授与される紺綬褒章の公益団体認定を受けました。個人で500万円、団体・企業等は1,000万円以上を日本財団へ寄付された方々で定められた条件を満たす場合、紺綬褒章の授与申請ができることになりました。今回は、団体としての適用第1号となります。伝達式では、まず笹川会長が「長年にわたり選手個人からの浄財を寄付していただき感謝しています。競技団体が一丸となり、こういう活動をしているのは世界でもここだけです。これからも誇りを持って働くよう、みなさんにお伝えください」とあいさつしました。続いて笹川会長から上瀧選手会長に紺綬褒章の褒状が手渡されました。これを受け、上瀧会長が「この度選手会が表彰を受けたことを大変誇らしく思っています。今後も選手とともに、社会のために役立つ活動をしてまいります」と述べました。
笹川会長と一緒に記念撮影する(左から)佐野隆仁専務理事、上瀧会長、大畑克総務部長
伝達式の後、インタビューに応じた上瀧会長は「我々はお金を出すだけでなく、災害のつど、被災地へ出かけてボランティア活動を続けています。これからも毎年こうした寄付を続けていきたい」と抱負を語りました。伝達式の感想を聞くと、上瀧会長は「今回は国交省からでなく、笹川会長から直接褒状を受けましたが、会長を尊敬しているだけにいつもより緊張しました」と話し、笑いを誘っていました。
インタビューに答える上瀧会長
日本モーターボート選手会は、災害時などにいち早く被災地に支援できるよう、選手会の会員であるボートレーサーから寄付を募り、日本財団の「社会貢献ボートレース基金」に寄付してきました。こうした寄付は2011年3月の東日本大震災以来、毎年行われていて、今回の1,500万円を含め合計17件、総額約7,447万円にのぼっています。
引用元:日本モーターボート選手会に紺綬褒章-日本財団ブログ「みんなが、みんなを支える社会」に向けて (canpan.info)
選手会長として最大の偉業:現役の走る選手会長の先駆けとなる
しかし上瀧 和則選手が選手会会長として最も後に影響を与えたのは「走る選手会長」という考えをボートレース業界に確立させたことでしょう。
上瀧 和則選手自身、選手会会長就任後は表舞台から離れて、数年に1回レースに参加を続けていましたが、2020年からは『選手会長が現場に立たないことがおかしい』という考えから、本格的な選手復帰を果たしています。
選手として水面に立つことで選手からの意見を聞くのはもちろん、選手側が一方的に有利になる考えに対して主催者側の意見を伝えることもあったそうです。
そして2021年に「現役の選手会会長による優勝」という史上初の偉業を成し遂げています。
2022年に後任として会長職を引き継いだ瓜生 正義選手も上瀧 和則選手の考えを引き継いでおり、2024年3月に会長職就任後初の優勝を達成しました。
また、その10日後にはボートレース住之江で開催された「G1・大閣賞競走」にて現役の選手会長としては初となるG2以上のグレードレース優勝を達成しています。
同期(60期)の注目選手
上瀧 和則選手の同期である「花の60期」には、にはどのような選手がいるのでしょうか。
主だった選手を以下にまとめました。
SGで2回の優勝歴を誇り、その巧みな操縦テクニックから「波乗り賢太」の異名を持つ烏野 賢太選手や、2024年2月にデビュー38年目にして待望のG1初勝利を飾った渡辺 豊選手、かつての名選手で、艇界屈指のペラ巧者である元競艇選手・谷川 宏之の背中を見て育った谷川 里江選手など、SGやG1戦線で活躍する選手が数多くいることから、かなり豪華な顔ぶれだと言えます。
登録番号 | 名前 | 支部 | 級別 |
3304 | 烏野 賢太 | 徳島 | A1 |
3303 | 渡辺 豊 | 東京 | A2 |
3300 | 川崎 智幸 | 岡山 | A2 |
3297 | 藤丸 光一 | 福岡 | B1 |
3302 | 谷川 里江 | 愛知 | B1 |
3289 | 高橋 淳美 | 大阪 | B1 |
- 烏野 賢太選手(3304)/1967年12月20日生まれ/徳島/A1
- 渡辺 豊選手(3303)/1967年9月17日生まれ/東京/A2
- 川崎 智幸選手(3300)/1967年4月19日生まれ/岡山/A2
- 藤丸 光一選手(3297)/1967年2月17日生まれ/福岡/B1
- 谷川 里江選手(3302)/1967年7月9日生まれ/愛知/B1
- 高橋 淳美選手(3289)/1963年5月25日生まれ/大阪/B1
元競艇選手・濱村 芳宏さんの引退を機に作成されたYouTube動画
- 同期の肴 60期 | 倉谷和信・濱村芳宏・川崎智幸・烏野賢太(2017年JLC制作)【濱村芳宏 引退特別配信】
60期の“2番手出世”は烏野 賢太選手
『ボート界きっての技巧派』と呼ばれ、荒れ水面に強い烏野 賢太選手。
烏野 賢太選手が競艇選手を目指した理由は、“バイクの遠征資金を稼いで、世界で活躍するロードレーサーになるため”だったそうです。
しかし、実際にボートレーサーとしてデビューしたことで『バイクのレースよりもボートレースの方が面白いことに気づいて競艇に専念するようになった』と後に語っています。
現在も一般戦を中心に活躍を続け、38年を超える選手生活を数えるベテランボ―トレーサーです。
名前 (フリガナ) | 烏野 賢太 (ウノ ケンタ) |
登録番号 | 3304 |
生年月日 | 1967年12月20日 |
身長 | 164cm |
体重 | 52㎏ |
血液型 | O型 |
支部 | 徳島 |
出身地 | 徳島県 |
登録期 | 60期 |
級別 | A1級 |
キャッチフレーズは、その巧みな操縦テクニックから「波乗り賢太」と「GRU」。
ちなみに愛称の「GRU」は「Great Racer Uno」の略とされており、これはテレビドラマ「GTO」主演の反町隆史の「グレートだぜ!」という決めゼリフのモノマネをSGやG1の開会式で披露したことがきっかけで定着そうです。
また、現在の競艇では必須のテクニック「モンキーターン」ですが、烏野 賢太選手は試行錯誤の末に独自のモンキーターンを編み出したことから、その旋回技術は「ハイテクモンキー」や「賢太スペシャル」という名で呼ばれています。
2015年まではSG戦線でも活躍しており、2001年の「第36回 総理大臣杯競走(尼崎)」と2003年の「第6回 競艇王チャレンジカップ競走(びわこ)」の2つのタイトルを獲得。
G1では14回、SGでは2回の優勝を飾っており、記念競走において数多く優勝するなど、四国を代表する競艇選手の一人として数えられています。
烏野 賢太選手の過去戦績
日付 | レース名 | レース場 | グレード | 戦績・概要 |
1987年7月18日 | 一般戦競争(タイトル不明) | 鳴門 | 一般 | デビュー |
1989年5月 | 一般戦競争(タイトル不明) | 宮島 | 一般 | 初優勝 |
1994年11月 | 開設42周年記念 競艇キングカップ ※翌年も連覇を果たしている | 児島 | G1 | G1初優勝 |
2001年3月20日 | 第36回 総理大臣杯競走(現:ボートレースクラシック) | 尼崎 | SG | SG初優勝 |
2019年3月31日 | eプリント杯 | 常滑 | 一般 | 通算90優勝を達成 |
2022年9月23日 | 丸亀-1グランプリ カルビーカップ | 丸亀 | 一般 | 通算2,500勝達成 ※史上34人目 |
烏野 賢太選手は1987年7月に地元・鳴門競艇場の水面でデビューし、初出走から1年10か月後に宮島競艇場の一般戦で初優勝の水神祭を飾ったうえに、1994年11月に児島競艇場で開催された「開設42周年記念 競艇キングカップ」でG1初優勝。
しかも、翌年の児島・周年記念では連覇を果たしています。
2001年3月には「総理大臣杯競走(現:ボートレースクラシック)」でSG初制覇を達成し、2年後の2003年にはSG2つ目のタイトルとなる「競艇王チャレンジカップ競走」のタイトルを獲得。
そして、2019年には選手生活31年10か月にして通算90優勝を達成して、2022年9月23日には、史上34人目目となる通算2,500勝を達成しています。
the INTERVIEW
ボートレースの世界にハマって、だんだん勝てなくなって、それでも走り続けたい理由がある。
ボート界きっての技巧派と呼ばれる烏野賢太。若い頃はエグるような鋭いモンキーターン『賢太スペシャル』を武器にSGを走れば2回に1回は優出していた。自らのボート人生を振り返る年齢になっても、まだ進化を止めようとはしない。その根底に流れるものは何か。そこにマスターズ世代の強さを読み解く鍵がある。
(インタビュー&構成/『マンスリーBOAT RACE』編集長 石井誠司)
うの けんた
1967年(昭和42年)12月20日生まれ。徳島支部・60期。
1987年7月、鳴門でデビュー。94年11月、児島・周年記念でGI初優勝。2001年3月、尼崎・クラシックでSG初優勝。
「波乗り賢太」と言われるように荒れ水面に強い。「花の60期生」の1人で、同期は倉谷和信、濱村芳宏らSG覇者に、選手会長の上瀧和則などトップレーサーが多い。
マスターズは新鋭戦のような感覚
マスターズで走るのは今回が2回目です。マスターズは新鋭戦を走っていた頃の感覚に近いものがありましたね。
お祭り要素の濃いマスターズは普段以上のレースをする人もいて、誰がどこに来るのか予測できません。艇が寄ってくるタイミングや、レバーを止めるタイミングが違い、リズムが合いませんでした。それで優出できなかったのだと思います。今までに何度も味わっているので、想定外には慣れていますけどね。
来年からは年齢制限が45歳以上になるので、メンバーも濃くなるでしょう。来年来るのはSGを獲った人ではなくて、SGで走っている人です。レース形態も変わると思いますよ。
バイクの遠征資金稼ぎにボート選手を目指す
学生の頃は、漫画『バリバリ伝説』や映画『汚れた英雄』の影響でバイクに憧れていました。16歳で免許を取って、平日は学校とバイト、日曜日になると鳴門からずっと南にある南阿波サンラインの有料道路(現在は無料)へ走りに行っていました。南阿波サンラインでは、曲がれそうにもないカーブを膝をこすりながら曲がったりして、かなり無茶をやっていましたよ。崖から落っこちそうになって大ケガもしましたしね。
そんなこともあって、「峠はヤバい」とサーキットで走るようになったんです。徳島県のチャンピオンにもなりました。
ただ、オートバイはお金が掛かるんですよ。だからボートの選手になって遠征資金を稼いで、世界で活躍するロードレーサーになろうと思っていました。
デビュー前の練習で首と顎を折る大ケガ
デビューは1987年7月、みんなより3ヵ月近く遅れてデビューしました。遅れたのは、デビュー前の練習で大ケガをしたからです。顎と首を骨折しました。首の第3頸椎と第4頸椎がズレて、第4頸椎の一部は粉砕骨折です。左腕も完全に麻痺していました。
ところが事故の日の記憶がほとんどないんですよ。バイクの事故ではスローモーションのように事故の記憶がありました。でも、ボートの事故の記憶はないんです。
事故の後、すぐに首の骨のズレを戻すために「牽引」が行われました。頭蓋骨を引っ張って首の骨のズレを戻すんです。普通は顎から上へ引っ張るのですが、僕の場合は顎の骨も折れています。顎に負荷を掛けられないので、頭蓋骨に2箇所穴を開けて、そこから引っ張るという方法を取ったそうです。覚えていなくて良かったです。
気がついたのは夕方、病院のベッドの上です。そのときに「自分はケガをしたのだ」とわかりました。左手が凄く痛むんですよ。「痛いというのは神経が通っている証拠。いつまでかかるかわからないけど治る可能性がある」と言われて我慢しましたが、人が通ったときに起きる微かな風でも飛び上がるほど、強烈な痛みでした。
もっと凄かったのは、顎の手術をしたときです。全身麻酔は生命に関わるということで、局部麻酔で手術しました。歯の1本1本にピアノ線のようなものを八の字に結び、型を取るためにステンレスに結び付けていくのです。歯茎にブスブスと刺していく痛みで血圧が200まで上がり、何度も中断しながらの手術でした。
事故の記憶がないのが幸いでした。麻痺したのが左手だったのも良かった。ボートに恐怖心を持つこともなく、3ヵ月後に無事デビューできました。デビュー戦の3勝は「あんな痛い目に遭ったのだから、絶対に元を取ってやる!」って気持ちです。それくらい痛かったんです。
上瀧と一緒に見た飯田加一の凄いターン
本栖の訓練生時代は「やっていける」と思っていましたが、実際に走ってみると次元が違いました。「足が痛い」とか「目が霞む」と言っているオジさんたちに全く歯が立たないんです。バイクやサーフィンなど、それまで勝てないと思うことがなかったから、驚きましたね。すごい世界があるものだと思いました。
モンキーターンを始めたのは、植木通彦君がクラシック(1993年・戸田)で優勝する1年くらい前です。どこかの記念を走ったときに、飯田加一さんが凄いタイムで勝つのを見ました。ちょうどデカペラが出始めた頃かな。同期の上瀧(和則)と一緒でした。
「あんなに凄いタイムが出るのはプロペラなのか、ターンなのか・・・やってみるか!」って、早速試運転で試しました。好奇心ですよ。確かにターンをした後に出ていくスピードが違っていたんです。
「ターン出口が良いぞ」ってことで、それからは試運転や展示でやるようになりました。本番では勝負所でしかやりませんでしたね。新鋭戦でもモンキーをやる選手はいたんですが、競技委員長から呼ばれて「ふざけたターンをするな」と言われることが多かったので。完成度が植木君と違っていたのでしょう。
足の差を見せつけられ「自分が間違っていた・・・」
中道善博と植木通彦の後ろでチャンスを待っていた
1995年の桐生・グラチャンで、初めてSGの優勝戦に乗りました。その頃が僕の”旬”だったのでしょう。その年のグランプリ優勝戦が、有名な中道(善博)さんと植木君の死闘です。3着を走りながら「2人してコケてしまえ」と思っていましたよ(笑)。その頃は「SGで6回優出すれば、必ず優勝できます」と言っていましたし、本当にSGで優勝を量産できると思っていました。ところがそうは行かず、だんだん勝てなくなりました。上を追い抜いていくときはわかっても、下から追い越されていることに気づかなかったんですね。SG優勝は今のところ2回です。
プロペラ調整でも置いて行かれました。プロペラ調整というのは、これという答えがありません。皆で試行錯誤して情報を共有するのが正解なんです。でも、当時の僕は「プロペラは選手にとって命のようなもの。気安く他人から教えてもらってはいけない」と思っていましたから、他の人に聞かなかった。自分の力で勝ちたかったし、実際に勝てると思っていました。勝てなくても、たまたまだろうと思っていました。
勘違いに気づいたのは、1997年の常滑・オールスター(笹川賞)の優勝戦でした。僕がスタートを決めて1マークで差したんですが、先捲りした植木君が前に出て行った。植木君に捕まる隊形ではありませんでした。エンジンが違いすぎていました。
「自分がやってきたことは間違いだった」と思い知らされました。「散々やってきて、これかい」って思いましたね。
それからのSGでは毎回、エンジン差を感じながら走りました。優勝戦に乗ってもずっとエンジンで負ける状態が続きました。それでも、もがき続けるしかありませんでした。
「優勝はいただいた!」と思ったこの後、6号艇の植木が前に出た
SGで優勝するコツは「次で良い」という気持ち
SG初優勝は尼崎・クラシック(2001年)です。10回目の優出で初優勝しました。
そのときもエンジンは出ていなかったので、プレッシャーはありませんでした。「西島(義則)さんが前付けに来るし、(山崎)智也に捲られたらおしまい。勝てる足でもないし、優勝は次でいいや」と思っていましたね。すると本番では思ったほど進入が深くならず、インから先マイして優勝できました。
びわこのチャレンジカップ(2003年)で優勝したときは、エンジンが出ていて「勝てそうだな」とは思ったけど、緊張感はありませんでした。クラシックで勝っていなかったら気持ちが入っていたでしょうが、1つ獲っているので余裕がありました。
あの優勝戦の進入は、心地良いものでしたね。いつもならいろいろ考えるんですが、あのときは特に何も考えていなかった。すると、家族や友達、応援してくれるみんなの顔が浮かんできたんです。その年は体調が良くなくて、走るのが苦しくなるときもありました。家族やいろいろな人に助けられて、チャレンジカップもギリギリでの出場でした。「優勝したら、みんな喜ぶんだろうなあ。今回はみんなのために優勝したいな」って思ったら、肩の力が抜けました。
タイトルを1つ獲るということは、そういうことかもしれません。勝つときは勝つし、ベストなレースをしても負けるときもあります。「何が何でも獲るんだ」ではなく、「勝つのは次で良い」と思えれば肩の力も抜けます。こればかりは場数を踏むしかありません。
「みんなのために優勝したい」無欲で臨んだびわこ・チャレンジカップで2回目のSG優勝
「乗りやすい」とはサスペンションの利き具合
バイクやカートをやっていると、サスペンションが重要だということがわかります。ボートでは、プロペラがサスペンションの役目をするんです。選手が「乗りやすさ」と大雑把に表現しているのは、サスペンションのことです。
サスペンションが上手く機能していれば、水面からの衝撃を吸収してくれるのでグィーンと回れます。利いていないと、ボートが暴れてターンになりません。プロペラ調整の巧い選手は僕がプロペラを合わせるのに3日掛かるところを、1回乗っただけで合わせてきます。感性が違うのでしょうね。
プロペラは形もあるし、調整方法もあるし、乗り方もあります。そうした総合的な感性がボートには必要です。でもノウハウがないから、何が正解なのか誰にもわからないんですよ。似た乗り物がないから、適性もわからないしね。確かにボートの天才はいるけど、その天才も努力するのがボートなんです。本当、正解のない世界ですよ。
会心のレースの快感にまた走りたくなる
僕にとって、マスターズは目標ではありません。まだ僕には極めてみたいというか、やり残しがたくさんあります。強い人もたくさんいるので、その人たちに少しでも追いつきたい、追い越したいという気持ちもあります。
1着を獲るにしても、ただ勝つのではなく、勝った後の気持ちも大切です。良いレースは年に何回もないけど、それまでのキツかったことも忘れるくらい気持ちが良いですよ。「してやったり」と思うのは、6コース差しで優勝したときでしょう。
一度、そんな気持ちを味わってしまうと止められません。また走りたくなるんですよ。手術の痛みの元もまだ取っていないしね。だから走り続けられるし、この位置にいられるんだと思います。
今度のマスターズでも、良いエンジンさえ引けば優勝できるチャンスはあります。エンジンが出ていれば「出ています」とコメントしますから、そのときは勝ちに行きますよ。
小学生の頃から全国に支部をもつ有名連『葵連』に所属し、レースがなければ夏の阿波踊りにも参加する。「継承する人が必要だし、価値のあることだと思う。選手を辞めても踊りは続けるでしょうね」
烏野 賢太 選手 データ室
(2017年3月9日現在)
◆通算成績 | |||||
---|---|---|---|---|---|
出走回数 | 優出 | 優勝 | 2連率 | 3連率 | |
通算 | 7,142回 | 288回 | 88回 | 50.5% | 66.0% |
S G | 829回 | 17回 | 2回 | 37.0% | 54.5% |
G 1 | 2,758回 | 61回 | 14回 | 41.7% | 58.1% |
◆全国成績(最近3節) | ||||
---|---|---|---|---|
2017年 | 3月 | 多摩川 | 一般競走 | 4 3 2 4 1 1 4 3 4 2 |
2017年 | 2月 | 鳴 門 | GI・地区選 | 6 1 3 5 6 1 2 1 1 |
2017年 | 2月 | 丸 亀 | 一般競走 | 2 6 3 5 3 4 2 1 2 |
◆津成績(最近2節) | |||
---|---|---|---|
2017年 | 1月 | 一般競走 | 1 1 1 1 2 1 1 1 1 |
2016年 | 5月 | 一般競走 | 1 2 1 4 4 4 6 1 3 F (帰郷) |
- BOATCAST NEWS│史上34人目の大記録! 烏野賢太 通算2500勝達成!! ボートレースニュース 2022年9月23日│
上瀧 和則選手のラストレース
上瀧 和則選手のラストレースは、2024年7月3日~6日に大村競艇場で開催された一般戦「BTSオラレ志布志開設15周年記念」初日の第8レースです。
このシリーズの初戦で、しかも絶好枠1コースからのイン戦速攻で逃げ切って、翌日の予選レースに弾みをつけたい状況で臨んだレース。
もちろん、このレースでの活躍を期待されたことと、応援するファンの推しもあって、単勝オッズは1.5倍で1番人気。
さらに3連単のオッズでは、人気2トップの買い目がいずれも“上瀧 和則選手が1着”と予想していることから、このレースの舟券絡みの最有力候補と考えられていたことがわかります。
勝利へのプレッシャーがかかる条件下で、2号艇には自分よりも勝率・級別が高い松井 洪弥選手が控える状況。
トップスタートをきった2艇がコンマ0台の好スタートから、2号艇・松井 洪弥選手の差しが決まって勝ち星を獲得するも、上瀧 和則選手はまさかのコンマ01のフライングを切ってしまいました。
このレースの3連単2–3–4は3番人気の900円(85.7倍)でした。
攻めた結果のフライングだと思いますが、ベテランレーサーである上瀧 和則選手にとっては痛すぎるフライングでした。
出走表
単勝オッズ
枠番 | 級別 | 選手名 | 単勝オッズ |
---|---|---|---|
1 | A2 | 上瀧 和則 | 1.5倍 |
2 | A1 | 松井 洪弥 | 2.1倍 |
3 | B1 | 眞崎 武蔵 | 13.1倍 |
4 | B1 | 山戸 信二 | 18.0倍 |
5 | B1 | 杉江 浩明 | 28.5倍 |
6 | B2 | 小林 京平 | 21.3倍 |
3連単オッズ
買い目(人気順) | オッズ(倍) |
---|---|
1–2–4(1番人気) | 5.1 |
1–2–5(2番人気) | 5.9 |
2–1–5(3番人気) | 8.0 |
2–1–4(4番人気) | 8.2 |
1–2–3(5番人気) | 8.8 |
レース結果
レース映像
- 【引退】3307上瀧和則ラストラン【60期】佐賀支部
上瀧 和則選手の引退で「公式サイト内のプロフィールページ」が削除される
上瀧 和則選手の引退が報じられた2024年8月9日。
情報の信憑性を確認するために、下記の2つの情報源で「上瀧 和則選手のプロフィールページ」の存在有無を調査しました。
- BOAT RACE公式サイト内のプロフィールページ
- ボートレースからつOfficial Siteの佐賀支部選手プロフィールページ
2024年8月9日時点で、それぞれのサイトに“上瀧 和則選手のプロフィールページ”が存在していたのか…その調査結果をご紹介します。
ボートレース公式サイト内のプロフィールページ
2024年8月9日までに「BOAT RACE公式サイト」内のプロフィールページが削除されたことが確認できました。
現在、上瀧 和則選手のプロフィールページにアクセスすると『※ データが存在しないのでページを表示できません。』と表示されて、以前のように情報を閲覧できない状態となっています。
また、同サイト内の検索機能を利用して“選手名”や“登録番号”で検索しても、すでに情報を見ることはできなくなっていました。
2024年8月9日時点で削除されたBOAT RACE公式サイトの選手紹介ページ
2024年7月27日、引退が報じられる前に確認できた選手紹介ページ
ボートレースからつOfficial Siteの佐賀支部選手プロフィールページ
上瀧 和則選手の情報は「BOAT RACE公式サイト」内から削除されましたが、2024年8月9日現在も「ボートレースからつOfficial Site」では確認することが可能でした。
しかし、引退届が受理されて選手登録が削除された以上、佐賀支部所属選手一覧からも近日中に削除されるでしょう。
2024年8月15日現在、上瀧 和則選手の情報は「ボートレースからつOfficial Site」内の佐賀支部選手一覧からも削除されたことが確認できました。
2024年8月9日現在、確認できたボートレースからつ公式サイトの選手紹介ページ
WEBニュースで引退が報じられる
2024年8月9日に「Yahoo!JAPANニュース」で上瀧 和則選手の引退が報じられました。
報道はいたってシンプルなものでしたが、引退が現実であることを実感する内容となっています。
稀代のイン屋・上瀧和則が引退
2024/08/09 11:00
ベテランボートレーサー・上瀧和則(56=佐賀)が引退したことが9日、分かった。8日に日本モーターボート競走会に引退届を提出した。
上瀧は1987年5月に唐津でデビューの60期生。同年6月に芦屋で初1着。GIは91年1月の唐津周年で初優勝するなど、69優出で優勝17回、SGは96年のボートレースダービーで初制覇し、20優出で優勝4回。通算では237優出で優勝85回。妥協なきコース取りから果敢に攻めるインファイターとしても名を馳せ、2004年にはオールスターを制するなど実力、人気とも兼ね備えた強豪だった。
また、レーサーとして以外でも12年から22年6月まで選手会会長を務めるなど、業界をけん引。選手会役員に就任した選手はレースに出走しないのが通例だったが、20年5月に「走る選手会長」としてレースに復帰。22年1月に津で優勝を果たし、大きな話題となった。現役最後のレースは今年7月3日からの大村で、初日8Rに1号艇でフライング。その直前節の平和島で「Fを切ったら選手を辞めると心に誓っている。準優とか優勝戦とかで「勝てる」と思ってのFなら仕方ないけど、関係ないところでFを切るのは集中力がなくなった証拠。そうなったらみんなに迷惑かけるからね。その時は選手を辞める。今はそういう気持ちでレースをしてるよ」とコメントしていたが、上瀧はこのレース後に途中帰郷。それ以降の斡旋は入っていなかった。生涯獲得賞金は約17億円。
【本気ビンタでGI初優勝】
佐賀支部の後輩・峰竜太「僕がデビューする前から佐賀支部のカリスマ的存在で、実際に先輩や後輩、支部も関係なく、いろんな人をついて来させるような魅力があふれる人でした。今でも忘れられない思い出が2つあって、GI初優勝の芦屋優勝戦締め切り5分前に、緊張を取るために本気でビンタされたこと。もう一つはSG初優勝した丸亀で、上瀧さんはこの時選手会長をされてたんですが、表彰式の後に待っててくれて『今までよく頑張ったな、おめでとう』って握手された時。僕は大泣きだったけど上瀧さんも泣いてくれてて…、多分(笑)。本当にいろんな経験をさせていただきありがとうございました。長い間、お疲れ様でした」
ほかにも、上瀧 和則選手の引退を報じた記事を見つけたのでご紹介します。
気になった方はこちらもご覧ください。
スポーツ報知:【ボートレース】SG4Vの上滝和則が引退
2024年8月9日 14時42分
ボートレーサーの上滝和則(56)=佐賀=が、引退していたことが9日、分かった。8日に日本モーターボート競走会に引退届けを提出した。
「エースのジョー」の愛称で親しまれ、SG4勝、G117勝の実績を残すとともに、5期10年間の長きに渡って日本モーターボート選手会の会長を務めてきた上滝がついに現役を引退した。
烏野賢太、浜村芳宏ら強豪ひしめく60期の最年少にして、在校勝率トップの鳴り物入りでデビューすると、デビュー2期目に早くもA級に昇格。3年目には記念常連に定着し、4年目の1991年1月には地元唐津周年でG1初優勝を飾った。
SGには3年目の89年福岡メモリアルで初出場を果たし、10年目の96年10月福岡ダービーで、同じ九州のライバルだった植木通彦に競り勝ち初優勝。佐賀支部の不動のエースとして君臨した。
転機は11年3月。まだ現役バリバリで脂ののった42歳の時、突如として選手会副会長に就任して現役を退くと、同年6月に選手会長に就任。5期目の20年6月には非常勤の会長として立候補し当選。史上初のレースを走る選手会長が誕生。6期目は立候補を見送り、後任の瓜生正義が走る選手会長を引き継いだ。
会長退任後4期目の22年後期にはA1級にも復帰したほか、22年からは毎年1回ずつ優勝を飾っている。
通算成績は出走回数5455走、勝率7・23、1756勝、優出237回、優勝85回。24年7月3日の大村初日8R、1号艇でのフライングがラストレースとなった。生涯獲得賞金は17億1470万1102円。
日刊スポーツ:【ボートレース】おとこ気あふれるSGレーサー上滝和則が引退
上滝和則(56=佐賀)が引退したことが10日までに分かった。8日に日本モーターボート競走会に引退届を提出して受理された。
60期として87年5月からつ一般戦でデビュー。91年からつ周年でG1初優勝を飾り、96年10月に福岡ダービーでSG初V。常にインを意識した前付けスタイルでファンを魅了した。
12年から約10年間、選手会代表を務めた。20年以降はレースにも本格的に復帰。22年1月の津一般戦では現役の選手会代表として初めて優勝を飾った。「選手会代表兼選手」の新たな流れをつくった。
通算1756勝。優勝は85度(SG4度、G117度)。今年7月大村一般戦でフライングを切ったレースが最後となった。
また、2024年8月14日には競艇専門誌「マクール」の【先週のボートニュース(8/5~13)】でも上瀧 和則選手の引退がトピックスとして紹介されています。
上瀧和則が電撃引退
“エースのジョー”の愛称でファンに親しまれた上瀧和則が引退した。
上瀧は1987年5月に唐津でデビューした60期生。96年福岡ダービーをはじめ、SGはV4。GIは17回優勝した強豪選手だった。レーススタイルはコース取りから攻めるインファイター。新鋭時代からベテランを相手に堂々と立ち向かい、時代を切り拓いてきたパイオニアでもある。また、レーサーとして以外でも12年から22年6月まで選手会会長を務めるなど、業界をけん引。選手会役員に就任した選手はレースに出走しないのが通例だったが、20年5月に「走る選手会長」としてレースに復帰した。22年1月に津で優勝を果たし、大きな話題となった。
現役最後のレースは今年7月3日からの大村で、初日8Rに1号艇でフライング。その直前節の平和島で「Fを切ったら選手を辞めると心に誓っている。準優とか優勝戦とかで”勝てる”と思ってのFなら仕方ないけど、関係ないところでFを切るのは集中力がなくなった証拠。そうなったらみんなに迷惑かけるからね。その時は選手を辞める。今はそういう気持ちでレースをしてるよ」とコメントしていたが、上瀧はこのレース後に途中帰郷。それ以降の斡旋は入っていなかった。生涯獲得賞金は約17億円。
引用元:出た!歴代4位の63万舟!上瀧和則が電撃引退、遠藤エミがレディースチャンピオン連覇 / ボートニュースまとめ(8/5~13) | ボートレース(競艇)【マクール】 (macour.jp)
Xでは“引退”を予感させるような投稿がされていた
「Yahoo!JAPANニュース」で上瀧 和則選手の引退が報じられる少し前、Xでは次のような投稿がありました。
この投稿のとおりであれば、7月23日にこれまで入っていた斡旋予定が全て削除され、8月9日までに「BOAT RACE公式サイト」内のプロフィールページが削除されたことがわかります。
上瀧 和則選手の引退理由は?
現在まで、上瀧 和則選手の引退理由は明言されていません。
しかし、引退が報じられる前の7月23日頃。
「BOAT RACE公式サイト」内の選手紹介ページに掲載されていた斡旋が全て削除されたことが判明しています。
ここからは、斡旋が全て削除された上瀧 和則選手の引退理由について考察していきたいと思います。
ますはじめに、成績不振による引退勧告の基準について見ていきましょう。
成績不振による引退勧告の基準
選手生命に関わるとされる“引退勧告”は「日本モーターボート協会が競艇選手に引退を勧告すること」と定義されています。
あくまで“勧告”であり、引退を強制するものではありませんが、定められている条件が競艇選手には選手生命を続けていくうえで致命的なものであるため、勧告を受けて引退をするケースが多いのが実情です。
毎年5月と11月に新人がデビューすることに伴い、成績が振るわない選手にとっては4月と10月は厳しい勝負時とされます。
なぜなら、成績下位の選手が退会勧告を受けて引退をするため、選手登録3年経過後の4期通算勝率が3.80未満のレーサーが候補になるからです。
引退勧告の基準は次のとおりとなっています。
判断項目 | 基準 |
---|---|
4期通算勝率 | 3.8未満 |
4期通算事故率 | 0.7以上 |
4期通算出走数 | 60回未満 ※自己都合により60回を下回る場合 |
ただし、以下の条件に該当する選手については対象外、もしくは特例措置を講じられます。
- 選手登録3年以内の選手は対象外
- 1期の出走回数が50走未満の場合、次の期と合計した2期分でカウント
- 産休は出産のあった期と前後いずれかの期の合計2期を除外
ちなみに、4期通算といっても1期(半年)が49走以内ならばカウントせず、50走以上になった次の期と合わせて計算するという特例もあります。
そのため、勝率や事故点が厳しい選手は出走回数を調整して「49走止め」を行うこともあり、全く勝てなくてもデビューから7年間は選手を続けることが可能となっています。
※“登録から3年の猶予”と“50走未満を維持して4年”の合計が7年であり、産休などを挟む場合は更に延長されます。
競艇は1年を前期と後期にわけた2期制を採用しており、実施期間を前期は1月1日~6月30日、後期を7月1日~12月31日までとしています。
そのため、4期通算=2年通算となり、2年間の勝率・事故率・出走数を考慮して判断されることとなります。
※審査期間の前期:5月1日~10月31日と後期:11月1日~翌年4月30日までとは異なるため注意が必要。
33年ルールとは?
上記のほかにも、引退勧告には選手数が1,600人を超えた場合にのみ適用される33年ルールがあることをご存じでしょうか?
ボートレーサーは基本的に1,600人が上限とされています。
このルールを端的に表現すると「デビューから33年以上のベテランを対象として、4期通算勝率が4.80を下回っている選手から順に、選手数が1,600人になるまで足切りをするというルール」です。
正確には選手登録後33年経過、かつ4期通算の勝率が4.80未満のレーサーに対して、退会勧告がなされます。
ただし、近年このルールは凍結されていました。
まず、勝率3.80未満の選手が引退して選手数が1,600人以内になれば、それ以上は選手数を減らす必要がないからです。
ところが、2023年前期から選手数の増加により、複数のベテラン選手が艇界から去る必要がでてきました。
そのため、33年ルールで引退するベテランレーサーは毎期ごと一定人数存在する状況に。
選手登録33年となれば、50~60代のレーサーがほとんど。
勝率4.80はオール4着では届かないため、それ以上の戦績が必要となります。
「登録から33年以内の選手の勝率ボーダーは3.80で、それ以上のベテラン選手は4.80というのは厳しい」という声も多く聞かれており、ルールの改変を求める声がある一方で「選手数が増えれば1人あたりの出走回数が減って大部分のレーサーは獲得賞金が減る」という背景があり、33年ルールの撤廃は難しいでしょう。
前節の平和島で自身の引退について語っていた
上瀧 和則選手はラストレースの直前に出場していた一般戦で、自身の引退を示唆するような発言をしていたことがわかっています。
その大会というのが、2024年6月22日から25日に平和島競艇場で開催された一般戦「第24回 夕刊フジ杯」です。
初日の第11レース・予選特賞に出場する際に受けたインタビューで次のように語っています。
Fを切ったら選手を辞めると心に誓っている。
準優とか優勝戦とかで”勝てる”と思ってのFなら仕方ないけど、関係ないところでFを切るのは集中力がなくなった証拠。そうなったらみんなに迷惑かけるからね。
その時は選手を辞める。
今はそういう気持ちでレースをしてる。
上瀧 和則選手は、この言葉を残した次のシリーズ、しかも初戦で痛恨のフライングを切ってしまったのです。
そして、自らの言葉を現実にするかのように同節をこの1走のみで途中帰郷し、それまで入っていた斡旋をすべて削除するに至り、結果として引退という道を選択しました。
【結論】考えられる引退の理由
前述の基準と上瀧 和則選手の勝率・事故率・出走回数を見比べると、引退勧告を受けた可能性は極めて低いと考えられます。
その理由は以下のとおりです。
- 4期通算勝率:勝率は年々低下しているものの、基準を下回る期はなく、4期通算で勝率3.80以上
- 4期通算事故率:事故率0.7未満(2024年7月3日のフライング以前は、2022年7月9日以降、スタート事故はなし)
- 4期通算出走回数:出走数は常に60回以上であり、60回未満の期はない
成績不振による引退勧告の基準のいずれにも該当しないため、引退勧告を受けるような立場ではなかったと推測できます。
そのため、考えられる引退理由として、前述した2024年6月の平和島競艇場で語ったとおり、『Fを切ったら選手を辞めると心に誓っている』という言葉を体現したものと考えられます。
つまり「準優や優勝戦とは関係のないところでフライングを切った=集中力がなくなった証拠=みんなに迷惑かける=今後の競艇界にとって自分は必要ない」と判断したが故に『年齢と自身の衰えを自覚して、自ら退く決断をした』ということでしょう。
そのような決断に至った経緯として、考えられるデータをご紹介します。
年 | 期 | 級別 | 出走数 | 勝率 |
---|---|---|---|---|
2020年 | 前期 | B2 | 0走 | 0.00 |
後期 | B2 | 0走 | 0.00 | |
2021年 | 前期 | B2 | 64走 | 4.63 |
後期 | A2 | 72走 | 6.04 | |
2022年 | 前期 | A2 | 107走 | 5.75 |
後期 | A1 | 123走 | 6.46 | |
2023年 | 前期 | B1 | 56走 | 6.23 |
後期 | A2 | 79走 | 5.54 | |
2024年 | 前期 | A2 | 93走 | 5.83 |
後期 | A2 | 82走 | 6.28 |
2020年5月に下関競艇場で開催された一般戦を皮切りに、会長兼任のまま“非常勤の選手会長”として「現役復帰」しており、「走る選手会長」として人気を集めました。
そのため2021年以降の直近4年だけで見ても、2021年に平均70走ほどだった出走数は年々増加して、2022年には平均115走を超えるほどまで増加。
同様に勝率も2022年後期の6.46を目途に徐々に低下の一途をたどり、遂に2023年後期には選手人生の最低値5.54まで下がっていたことが読み取れます。
しかし、2023年には一時的に出走回数は減少し、勝率も下がったものの、2024年には出走数も増えて、勝率も徐々に上昇してきたところで、決して引退勧告を受けるような立場ではなかったことがわかります。
この結果から鑑みるに、現段階で考えられる引退理由は「準優や優勝戦とは関係のないところでフライングを切った=集中力がなくなった証拠=みんなに迷惑かける=今後の競艇界にとって自分は必要ない」と判断したが故に『年齢と自身の衰えを自覚して、自ら退く決断をした』ということです。
これは長年、一途に走り続けてきた超一流選手だからこそのプライド故、最も納得がいく理由でしょう。
上瀧 和則選手の電撃引退に対するSNSの反応は?
上瀧 和則選手の電撃引退に対して、SNSにはそのような声が投稿されているのでしょうか?
「引退を惜しむ声」「今までの活躍を労って賞賛する声」そしてほかにもさまざまな投稿が見られました。
その中でも特に印象的だったのが「元ボートレーサーの植木 通彦さんよりも上瀧 和則選手が好きだったという声」。
具体的な内容としては『また1人ベテランが去っていきますね…』『潔いね 男らしい』『強烈な前付けカッコ良かった!』『彼が強かった時も観てたし、会長だった時も今も観てた』という、上瀧 和則選手を長いこと応援してきたことが伝わる投稿が印象的でした。
それでは、投稿内容の一部を抜粋してご紹介します。
引退を惜しむ声
今までの活躍を労って賞賛する声
元ボートレーサーの植木 通彦さんよりも上瀧 和則選手が好きだったという声
他にも見られたさまざまな投稿
まとめ
上瀧 和則選手、デビューから約37年以上の長きにわたってのご活躍、本当にお疲れさまでした。
素晴らしい活躍とボートレースの楽しみをたくさんのファンに提供していただいたこと、そして何よりも競艇界をより良いものにしようと先陣を切って変革を行ってきたカリスマ性に頭が下がるとともに、その志の高さとボートレーサーにとって良い環境づくりに尽力していただいたことに、多くのボートレーサーと競艇ファンが心より感謝していることでしょう。
上瀧 和則選手の第二の人生が健康で幸多きものとなりますよう、心よりお祈りいたしております。
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