競艇ってさ、どんな風に始まったの?
競艇の歴史か、よし、話してやろうか。
競艇とは水上で6艇が1周600mのコースを3周し、その順位を競い合う競技です。
そのレースの激しさから競艇は「水上の格闘技」と呼ばれており、多くのファンを魅了しながら愛され続けています。
現在競艇場は全国に24会場あり、365日ほぼ休むことなくレースが行われているんです。
競艇の売上は2021年の時点で2兆3301億8782万3700円にも上り、インターネットの普及や積極的なPR活動からますますその人気に拍車がかかっています。
そんな競艇のルーツを紐解いていきましょう!
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競艇の歴史を学ぼう
では早速競艇のルーツについて学んでいきましょう!
ここでは競艇がどのようにした始まったのかを解説していきます。
ボートレースがはじまったきっかけ
現代のボートレースの起源は、およそ120年前の1904年にイギリスにて行われたモーターボート国際レースが起源となっています。
翌年1905年には、アメリカで「第1回ゴールドカップ」と呼ばれるボートレースの世界選手権が開催。
アメリカで開催されていたボートレースは日本の競艇のスタイルとは違い、
「パワーボートレース」と呼ばれる日本の競艇で用いられているボートよりも大きいボートでレースを行っていたようです。
世界最古のボートレースは紀元前1430年前のエジプトで競漕という名前で行われていたのが起源とされています。(wikipediaより)
日本初のボートレース
日本初のボートレースは、1931年(昭和6年)に隅田川で「第1回船外機艇競走大会」が開催され、
翌年には品川台場にて長距離耐久競争が開催されました。
その後は第二次世界大戦を経た終戦後に、逗子にてアメリカと日本が対抗でレースする「逗子モーターボートレース」が開催され、終戦後の疲弊した人々を活気づけました。
現代の競艇は上記で紹介した大会がベースとなっていると言われています。
ボートレースそのものは戦前からあったようですが、戦後に大きく認知されたとも言えますね!
競艇界を変えた歴史的な出来事
終戦から程近い1950年代は、日本で初めて公式競技としての競艇が生まれた時代です。
それぞれの時代で起きた変化を見ていきましょう。
1950~1970年代
年表 | 出来事 |
1951年 | モーターボート競走法の成立 |
1952年 | 公営競技として初レースが開催 |
1961年 | フライングに対する舟券返還制度が導入 |
1965年 | 鳳凰賞競走の開催 |
1951年 -「モーターボート競走法」の成立
1951年には戦後復興を目的として、競艇が公式競技として認定されました。
同年6月18日に、現代の競艇のルールの基盤でもある「モーターボート競争法」が公布され、同年3月には大村選手養成所で選手の養成が開始。
更に同年11月には社団法人全国モーターボート競走会連合会の設立が認可され、公式競技としての準備が1年で大幅に進みました。
「モーターボート競争法」の制定のために奮闘したのは、競艇の父とも呼ばれる笹川良一氏だ。
同法は一度は衆議院本会議で可決されましたが、賛成していたはずの野党が反対に回ったことで参議院本会議で否決されました。
そこで笹川氏は与党の要人らを再説得し、衆議院会議で再議決された後に成立されたようです。
笹川氏は先述した社団法人全国モーターボート競走会連合会の設立にも関与しており、1955年には同連合の会長に就任。
当時競艇は赤字が続いており、廃止をした方が良いという声が上がる中で笹川氏は私財を地方公共団体に投じ、「競艇はいずれ収益が出る。そして社会に大きく貢献するだろう」と競艇の廃止論に反論していました。
笹川氏の予言通り、今や競艇は2兆円を超える大規模な公営競技になりましたね!
笹川氏は「競艇の生みの親」と呼べるだろうな!
1961年 – フライングに対する舟券返還制度の導入
1961年4月1日からフライングした艇の舟券が返還される制度が導入されました。
競艇では、決められた時間内に一斉にスタートラインを超えるフライングスタート方式が採用されています。
この際に決められた時間内より早くスタートをしたり、出遅れたりした選手は失格扱いになってしまうんです。
舟券返還制度は、こういったスタート事故に対してファンにしっかりと購入した分の舟券代金を返還する制度として導入されました。
当時から競艇ファンに対して誠実に対応をしているということが分かりますね!
▼フライングについて詳しく知りたい方はこちら!
1965年 – 鳳凰賞競走の開催
1965年には鳳凰賞競走が開催されました。
鳳凰賞競走とは、ボートレースクラシックにおける通称の1つであるSG競争です。
1988年より鳳凰賞競走は総理大臣杯に名称が変更されましたが、現代ではボートレースクラシックと呼ばれています。
記念すべき第一回目の鳳凰賞競走は平和島競艇場で開催され、その優勝賞金は150万円でした。
同年には戸田競技場で初のレース中継が場内にて放映され、翌年には競艇がテレビで放映が開始。競艇はより多くの人々の目に留まるようになったようです。
1980年~現代
年表 | 出来事 |
1985年 | 電話投票の導入 |
1988年 | グレード制・持ちペラ制度の導入 |
1991年 | スタート練習の廃止・優勝戦が3周に |
1997年 | ナイターレースの導入 |
2001年 | インターネット投票の導入 |
2002年 | スタート展示の復活 |
2012年 | 持ちペラ制が廃止される |
2014年 | 賞金王決定戦のルールや大会の名称が変更される |
1985年 – 電話投票の導入
1985年には、インターネット投票の礎ともいえる電話投票が平和島競艇場で導入されました。
それまで競艇ファンの方は直接競艇場で購入することしかできませんでしたが、電話投票が導入されたことにより遠隔からでも購入が可能になったようです。
電話投票が投票されたことで、人々は気軽に投票できるようになり業績が停滞し始めていた競艇は再び息を吹き返すように売上を伸ばし始めました。
1988年 – グレード制・持ちペラ制の導入
1988年にはグレード制と持ちペラ制が導入されました。
グレード制とは、大会の格付けと言えます。グレードについては下記のようになっているので、確認していきましょう。
グレード | 出走時条件 | 開催数 | 主なレース |
---|---|---|---|
一般戦 | 条件なし | 毎日 | 下記以外のレース |
G3 | 条件なし | 約50回 | オールレディース
企業杯など |
G2 | 条件なし | 約8回 | モーターボート大賞
ボートレース誕生祭など |
G1 | A1級レーサー | 約35回 | プレミアムG1
ダイヤモンドカップ競走など |
SG | レースごとに異なる | 8回 | ボートレースクラシック
ボートレースオールスターなど |
上記の様に区分けされており、それぞれのグレードで賞金も変わってくるためボートレーサー達は日々ビッグレースに出るために互いに鎬を削りあっています。
同年に導入された持ちペラ制度は、レースの際に選手が自身のプロペラを持ち込むことが出来る制度。
多くの選手はレースに強いプロペラの作成や研究を行いました。
個人で全てを研究・作成するのは難しいため、選手同士で協力してプロペラを作る「ペラグループ」が組織されていたようです。
同年には「艇王」である彦坂郁雄氏の引退や、大村競艇場にて選手3人が不正プロペラを使用したことで逮捕されるといった事件が起きました。
▼持ちペラ制度について知りたい方はこちら!
1991年 – スタート練習の廃止・優勝戦が3週に
1991年にもルールが大きく変更になったのです。
現代で本番レース開始前に行われるスタート展示は、当時「スタート練習」と呼称されていました。
スタート前にモーターの調子やタイムなどを予想するためにはスタート練習が必要不可欠ですが、スタート練習は1991年で廃止になりました。
これには多くの競艇ファンも驚愕したことでしょう。
更に優勝戦の周回数が従来の4周から、他のレースと同様の3周に変更されました。
長年のファンからすると、このようなルール変更は驚きの連続だったと思います。
同年には競艇の総売り上げは2兆円を超え、公営競技の全体の25%を占めるようになりました。
▼スタート展示を詳しく知りたい方はこちら!
1997年 – ナイターレースの開催
1997年に、夜に開催されるナイターレースが初開催されました。記念すべき第一回目は9月20日に桐生競艇場にて開催。
ナイターレースは桐生競艇場を皮切りに、様々な会場に徐々に波及していきました。
2000年-3連単の導入
今では当たり前の3連単は2000年に導入されました。
3連単の正式名称は三連勝単式投票権っていうんだぜ。
1着と2着と3着に入る艇をピッタリ当てる舟券だよね!
公営競技の中で、3連単という仕組みは競艇が初めて導入され多くの人々に刺激を与えました。
初めての3連単は住之江競艇場で導入され、そこから全国の競技場に波及したようです。
2001年 – インターネット投票の導入
今までは電話投票か競艇場でしか舟券を購入ができなかったのですが、
インターネットの普及によりWeb上でネット投票が可能になりました。
ネット投票ができるようになったことで、電話投票よりも手軽に投票ができるようになったのは大きい変化といえますね。
今では当たり前のようにテレボートやボートレース公式アプリから投票していますが、
当時の人々にとってネット投票は革新的なものだったのではないでしょうか。
2002年 – スタート展示の復活
1991年に廃止されたスタート練習は、スタート展示として2002年に復活しました。
この復活に多くの競艇ファンは歓喜したはずです。
競艇を予想するうえで多くの情報がスタート展示から手に入るからな。
予想をする時にはスタート展示の情報がかなり重要になるので、情報がたくさん手に入るのはファンにとってはかなり嬉しいものですね!
2012年 – 持ちペラ制が廃止される
選手自身が自分のプロペラを持つことが許されていた持ちペラ制度。
そんな持ちペラ制度は2012年廃止されることになりました。
持ちペラ制度の廃止が決定された理由について、日本モーターボート競走会は以下のようにコメントを残しています。
「選手の持ちペラ制度は、選手のプロペラ修整技術向上により迫力あるレースの具現化に寄与した反面、モーターと選手の持ちペラがどのようにマッチングするかが複雑で推理が難しい」
要約すると、持ちペラによって性能が変わることからモーターの勝率などの数値から予想しづらいということが廃止を決定した理由のようです。
持ちペラ制が廃止されたことから、選手たちはモーターに備え付けられているプロペラを使用しなければならなくなりました。
2014年 – 賞金王決定戦のルールや大会の名称が変更される
この年には多くの大会の名称や賞金王決定戦のルールが変更されました。
賞金王決定戦については、2ステージ制度に変更に。
名称の変更については、以下にまとめましたので確認していきましょう!
オールレディース | G3に格下げ |
オール女子競走 | オールレディース競走に改称 |
ヤング戦線 | ヤングダービー競争に変更 |
女子リーグ戦 | ヴィーナスシリーズに改称 |
ヴィーナスシリーズ | 一般戦からG3に格上げ |
女子王座決定戦 競艇名人戦 賞金女王決定戦 | 新鋭王座決定戦プレミアムG1へ |
競艇史に名を刻んだ伝説の選手
昭和50年代から始まり売り上げも選手数も桁違いになった競艇。
人々を時代と共に楽しませ続けた背景には、レジェンドと呼ばれるボートレーサーの存在がありました。
レジェンドと呼ばれるボートレーサーは現代でも語り継がれており、人々の記憶に色濃く残っています。
- 彦坂郁生
- 野中和夫
- 植木道彦
- 加藤峻二
- 鈴木弓子
この五人の選手を無しに競艇の歴史は語れません。それぞれの選手がどのような活躍をしていたのか見てみましょう。
彦坂郁生〜艇王
元祖艇王。まさに競艇界のレジェンドにふさわしい名を持つ彦坂氏は、数々の記録を持っています。
- 期勝率第一位回数…20回(歴代最多)
- 連勝記録…37連勝(1970年3月22日〜同年4月22日までの期間。歴代最多)
- 特別競走(SG・GI)優勝回数…77回(歴代最多)
- 年間特別競走優勝回数…9回(歴代最多タイ)
- 期勝率史上初の9点台…9.27(1970年後期)
- 全24場特別競走優勝(史上唯一)
- 優勝回数…179回(歴代最多)
いくつかのこの記録は、競艇が始まって70年経った今でも打ち破られていません。
これ…かなり恐ろしい戦歴であることが分かるな…。
そんな艇王は、1984年9月4日に部品を持ち込んだことで整備規程違反に抵触。
彦坂氏は持ち込んだことを認めたうえで「レースに使うつもりではなかった」と弁明しましたが、弁明は認められずに選手会より引退勧告を受けた後に引退したそうです。
レジェンドの幕引きとしてはあまりにも呆気ない最後でしたが、その後彦坂市は実業家に転身。
日本国外にも進出して世界で活躍しているようです。
野中和夫〜競艇界のモンスター
期間最高勝率9.53、SG競走での制覇記録が17回というまさに怪物級の記録を持っていた野中氏は、ファンから「モンスター」と呼ばれていました。
そんな野中氏は、艇王でもある彦坂氏の後輩でありながらライバル関係を築いていたようです。
1970年代は期間最高勝率を2人で分け合うほどの実力。
もちろん直接対決もあったようですが、彦坂選手には敵わなかったようです。
- 総理大臣杯競走 1回
- 笹川賞競走 6回
- グランドチャンピオン決定戦競走 1回
- オーシャンカップ競走 1回
- モーターボート記念競走 3回
- 全日本選手権競走 2回
- 賞金王決定戦競走 3回
余談ですが、彼がモンスターと呼ばれていた理由は大酒飲みという理由もあったようです。
さらに無類の女たらしだったようで、多いときには7人と同時交際をしていたことも。
野中氏は65歳の時に体力的な限界から引退を表明。
平成19年には選手会の会長を4年間務め、競艇の発展のために活動を続けました。
植木道彦〜競艇界のフェニックス
2代目艇王の名を手にした植木氏は、ファンから競艇界の不死鳥と呼ばれています。
植木選手は1986年にデビューし、3年後に桐生競艇場で転覆事故により顔面を負傷。
75針を縫う全治5ヶ月の大怪我を負ったんだ…。
多くの選手は負傷した競艇場で復帰をすることは避けるのですが、植木選手は桐生競艇場にて復帰することを決意。
事故から半年後に復帰し、その翌年には初優勝を飾りました。
その後、SG初出場で総理大臣杯にて優勝。1996年には年間獲得賞金が2億円に到達し、2002年には2憶8393万4000円に到達したんです。
この記録は競輪・競馬・オートレースを含む公営競技では初で、未だにその記録は破られていません。
以上の経緯から植木氏は不死鳥という異名が名づけられ、競艇界の不死鳥と呼ばれるようになりました。
そんな植木氏は2007年7月に選手を引退。
現在はボートレースアンバサダーとしてTVやYoutubeなどに出演しています。
加藤峻二〜最年長の大将
登録番号が1000番台というほぼ最初期から、最後まで現役のボートレーサーとして走り続けた加藤氏はファンから愛称を込めて「峻ちゃん」や「御大」と呼ばれています。
1959年に17歳の若さで桐生にてデビュー。
「埼玉KK砲」の名を全国に知らしめ、4つのSG競走でタイトルを獲得しました。
通算3249勝という歴代で2位の記録を持ち、2003年には笹川賞で61歳の年齢でSGに優出。
更にはその10年後71歳にしてホーム水面である戸田で最年長優勝記録を更新。
加藤氏の通算レース数は14652年。73歳までひたすら水面を走り続けた加藤氏を称えて、戸田競技場では「加藤峻二杯」が開催されたこともありました。
競艇史に残る伝説のレース
初開催から70年。長い歴史を持つ競艇には、ファンが声を揃えて「歴史的なレースだ」と語るレースが存在します。
独断と偏見で選ぶ競艇史に残るレースを、動画と共にご紹介します。
不死鳥VS水上の人間国宝
まず最初にご紹介したいのが、中道氏と植木氏の戦い。
第10回賞金王決定戦は、住之江競艇場で行われました。
5号艇はあの不死鳥植木氏、1号艇は水上の人間国宝と呼ばれる中道氏です。
第1マークのターンから鋭いターンを決める植木氏。1番手は中道氏で2番手は植木氏の状況で互いに競り合っていましたが、なんと2マーク目のターンでインから針を通すように中道氏を差しました。
その後2週目の第1マークで中道氏がインから差し互いに競り合います。そこからお互い差し合いながら、最後には植木氏がインから中道氏を差して1番手でゴールしました。
あまりにも熱すぎるこの戦いは、競艇史に残るレースと言っても過言ではありません。
峰竜太のぶち抜き
デビュー1年目で初優勝を飾り、2年目でG1に出場した水面の申し子峰竜太選手。
そんな彼の名シーンは多岐に渡りますが、この動画ではその強さを遺憾なく発揮しています。
このレースは第1マークのターンから4-5-6の並びでしたが、2周目の第1マークのターンで一気に距離をつめ、第2マークでは4号艇と6号艇を抜き去りました。
続く3周目の第1マークでは一気に5号艇に距離を詰め、第2マーク寸前で前に出てターン後に1着へ。レースは1-5-4の着順で幕を閉じました。
近代の名シーン詰め合わせ
かなり長編の動画になるので、お時間がある時に見るようにしてくださいね!
21世紀当初から現在に至るまでの名レースを集めた動画です。
20:32あたりから始まる、ボートレースメモリアルの優勝戦が超熱いんだよな。
競艇史の中で爪痕を残した事件
数々の歴史がある競艇ですが、もちろん中には競艇界を揺るがすような事件も起きているんです。
最後に競艇史に残る大きな2つの事件を紹介していきます。
西川昌希の八百長事件
2020年にかなり話題となった競艇の八百長事件。
主犯である西川昌希は競艇会場に携帯電話を持ち込み、共犯者である親族に操作する着順を伝えることで八百長を行いました。
その後西川昌希と共犯男性は逮捕。被害額はおよそ3億円にのぼるとも言われています。
西川昌希の受け取った金額は3,725万円でしたが、実刑判決を受け懲役3年と追徴金3,725万円を言い渡されました。
判決を受けた後に、西川昌希は「他にも八百長してる選手はいる」と言い残したようです。
この発言から、競艇に対してマイナスイメージを抱いたファンもいただろうな。
▼競艇の八百長をもっと知りたい方はこちら!
ボートレース江戸川騒擾(そうじょう)事件
競艇界でも最大の汚点ともいえるボートレース江戸川騒擾事件。
競艇場の職員が舟券の締め切り後に舟券を追加で発券し、そこから利益を上げていました。
その被害額はおよそ2,200万円とも呼ばれています。
この事件が最大の汚点と呼ばれる所以は、犯行が組織的に行われていたことと犯行に携わった人が競艇場の職員だったことです。
この事件の影響で、当時のファンは失望したのではないでしょうか。
まさか競艇場の職員が不正行為をしているなど、普通は考えませんからね。
競艇ファンへの最大の裏切り行為といえるだろうな。
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