2025年4月8日、福岡支部の56期レーサー・日高 逸子選手(4148)が、この日までに入っていた斡旋をすべて削除していたことが明らかになりました。
そして、同じ日にはBOAT RACE公式サイトで2025年5月27日~6月1日に常滑競艇場で開幕する「G2・第10回レディースオールスター」を“私傷病”を理由に出場取消したことも発表されています。
4月16日現在、ボートレースオフィシャルサイトの選手ページに日高 逸子選手の出場予定は依然として入っておらず、何かしらの理由があってすべての斡旋を削除したものと推測できます。
1985年5月23日に芦屋競艇場で56期としてデビューして以来、実に40年にわたり女子ボートレース界をけん引。
2025年4月現在、現役女子ボートレーサーとして最年長、かつ公営競技女子最高齢勝利の記録保持者として第一線で走り続けている日高 逸子選手。
2025年4月1日~6日に桐生競艇場で開催された「第18回 ドラキリュウカップ ヴィーナスシリーズ第1戦」4日目・第9レースの3着を最後にシリーズ5日目以降のレースの斡旋を削除して、“家事都合”で途中帰郷してからの全斡旋削除。
そして、ファン投票で17位となる6,781票を獲得し、選出順位20位で出場権を手にしていた「第10回 レディースオールスター」まで出場取消せざるを得なかった理由はどのようなものなのでしょうか?
そして、噂される「引退説」の信憑性はどれくらいなのでしょう?
ここでは、艇界のグレートマザーの異名をとる日高 逸子選手について、途中帰郷からすべての斡旋を削除した理由とSNSの反応から、基本情報・過去戦績・同期の注目選手・獲得賞金・SNS・長期欠場や引退の可能性まで、最新情報をもとにどこよりも詳しく解説していきますので、ぜひ最後までご覧ください。

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突然の“全斡旋削除”の経緯
2025年4月8日、日高 逸子選手の斡旋がすべて削除されたことが明らかになりました。
この日に削除されたレースの出場予定は、次の4つのシリーズです。
- 4月13日~16日に津競艇場で開催予定の「一般・中日スポーツ津ボート大賞」
- 4月22日~27日に宮島競艇場で開催予定の「一般・第52回 岩田杯」
- 5月1日~6日に芦屋競艇場で開催予定の「一般・スポーツ報知杯争奪 ゴールデンウィーク特選」
- 5月13日~18日に常滑競艇場で開催予定の「G2・第10回 レディースオールスター」


この斡旋削除により日高 逸子選手に入っている斡旋は1つもなくなりました。
日高 逸子選手は、4月1日~6日に群馬県にある桐生競艇場で開催された一般戦「第18回 ドラキリュウカップ ヴィーナスシリーズ 第1戦」に出場しましたが、シリーズ4日目・第9レースの3着を最後に5日目以降のレースを“家事都合”のため斡旋を削除して、そのまま途中帰郷しています。
この時点で、日高 逸子選手は今期2本のフライングをかかえており、5月13日~18日に常滑競艇場で開催される「G2・第10回 レディースオールスター」に出場した後に、7月17日まで60日間のフライング休みを取得する予定でした。
しかし、突如入っていた4件の斡旋すべてを削除(=出場取消)したことで、斡旋削除の理由と今後の動向に注目が集まっています。
また、日高 逸子選手はこのレースの5日後のスポーツ報知の取材に対して『体は大丈夫です。しばらく休みたくなりました。復帰したらよろしくお願いします。』とこたえたことが報じられており、競艇ファンからは詳細を心配する声があがっていました。
さらに、その日のうちに今度は“日刊スポーツ”と“スポーツ報知”の取材にこたえた日高 逸子選手は、斡旋削除の理由についてより詳しく語っていましたので、ご紹介します。

走り続けてきたので、心と体のメンテナンスをしたくなりました。
体力は大丈夫なんですけど、ひざも左足首も、右手首も悪いので。
満身創痍(まんしんそうい)です。
しばらく休んでから復帰するつもりです。
続いて、記者から復帰時期を問われた日高 逸子選手は、自身の欠場期間と今後の進退について次のように語っています。



8月10日まで辞退を出しています。
それ以降に復帰する予定です。
レディースチャンピオン(浜名湖、P・G1、8月6~11日)には出ません。
途中帰郷から長期欠場が報じられるまでの時系列
5日目以降のレースの斡旋を削除・途中帰郷してから、当時入っていたすべての斡旋を削除されるまでの経緯を時系列にまとめましたのでご覧ください。
4月1日~6日に桐生競艇場で開催された「一般・第18回 ドラキリュウカップ ヴィーナスシリーズ 第1戦」に出場するも、4月4日の第9レースの3着を最後に“家事都合”を理由に5日目以降のレースの斡旋を削除し、途中帰郷した。
※シリーズ4日目の前走(第5レース)では出遅れで返還欠場となっていたことで、心配する声も聞かれていました
当時入っていた4件の斡旋すべてを削除したことが判明する。
日高 逸子選手が削除した斡旋は次の4件です。
- 4月13日~16日に津競艇場で開催予定の「一般・中日スポーツ津ボート大賞」
- 4月22日~27日に宮島競艇場で開催予定の「一般・第52回 岩田杯」
- 5月1日~6日に芦屋競艇場で開催予定の「一般・スポーツ報知杯争奪 ゴールデンウィーク特選」
- 5月13日~18日に常滑競艇場で開催予定の「G2・第10回 レディースオールスター」
BOAT RACE公式サイトで日高 逸子選手が“私傷病”で「第10回 レディースオールスター」の出場取消手続きを行ったことが発表される
日高 逸子選手が長期欠場することがWEBニュースで報じられ、スポーツ紙の取材に斡旋削除の理由を語ったことが報じられる。
2025年4月4日(途中帰郷当日):“家事都合”のため「第18回 ドラキリュウカップ ヴィーナスシリーズ 第1戦」5日目以降のレースの斡旋を削除・途中帰郷
まずはじめに、日高 逸子選手の途中帰郷について見ていきましょう。
日高 逸子選手が、“家事都合”を理由に翌日以降の斡旋を削除・途中帰郷となった直前のレースは、4月1日~6日に桐生競艇場で開催された「一般・第18回 ドラキリュウカップ ヴィーナスシリーズ 第1戦」4日目の第9レースです。
シリーズも予選最終日を迎えて、初日の不調から一転して2走目からはオール3連対どころか、2日の後半カードからはオール2連対の好調を維持していた日高 逸子選手。
しかし、前走では出遅れて返還欠場となり、どこかいつもと違う様子に観客が違和感を感じていた第9レースの予選特賞。
日高 逸子選手は2号艇・2コースからの進入で、このレースでも全国と当地勝率・スタートタイミングはトップで、もっとも秀でた成績を誇っていたことから活躍を期待されていました。
その証拠に、単勝オッズではインコースの坂野 さくら選手の2.2倍に迫る2.6倍で2番人気。
結果はコンマ30のスロースタートで出遅れて、1周1マークで内から差して上手くレースを運び、ここでも連絡みの活躍を見せますが、最後まで2番手に浮上することはできずに今節2度目となる3着に終わります。
傍目には転覆・接触などの事故もなく、傍目にはいつも通りのレースに見えました。
しかし、このレース終了後に予想だにしない事態が起きます。
それは『日高 逸子選手が“家事都合により”途中帰郷』するというもの。
ここまでの成績であれば、確実に翌日の準優勝戦に乗れたはずにもかかわらず、走ることをやめる選択をしました。
翌日に予定されていたレースはいずれも斡旋削除となり、最終的には“家事都合のため途中帰郷”となってしまいました。
日高 逸子選手は昨今のボートレース界で問題視されているような“自己都合”での途中帰郷をするような選手ではありません。
それは選手だけでなくファンが1番良くわかっているはずです。
だからこそ、これだけ多くの日高 逸子選手を心配する声があふれたのでしょう。
途中帰郷は選手自身の都合で帰郷するときに使われる用語です。
病気などのほか、級別審査対象期間の締めとなる4月と10月の下旬には、次期の昇級や降級回避が確定した時点で帰郷する選手もいるとされ、近年のボートレース界ではレーサー不足の要因と考えられています。


出走表


単勝オッズ
枠番 | 級別 | 選手名 | 単勝オッズ |
---|---|---|---|
1 | B1 | 坂野 さくら | 2.2倍 |
2 | A2 | 日高 逸子 | 2.6倍 |
3 | A2 | 金田 幸子 | 2.9倍 |
4 | B2 | 濱崎 寿里矢 | 16.1倍 |
5 | B1 | 大廣 咲季 | 20.5倍 |
6 | B1 | 松尾 怜実 | 16.5倍 |
3連単オッズ
買い目(人気順) | オッズ(倍) |
---|---|
1–3–2(1番人気) | 8.4 |
1–2–3(2番人気) | 8.5 |
2–1–3(3番人気) | 11.3 |
3–1–2(4番人気) | 11.3 |
2–3–1(5番人気) | 11.5 |
3–2–1(6番人気) | 11.6 |
3–2–6(7番人気) | 26.4 |
レース結果


2025年4月8日(途中帰郷から4日後):当時入っていた4件の斡旋すべてを削除
日高 逸子選手は4月1日~6日に桐生競艇場で開催された「一般・第18回 ドラキリュウカップ ヴィーナスシリーズ 第1戦」4日目の第9レース以降、5日目を“家事都合”を理由に斡旋削除し、途中帰郷しました。
そして、4日後の4月8日に当時入っていた4件の斡旋をすべて“私傷病”を理由に削除しています。
この日に削除された斡旋は次のとおりです。
- 4月13日~16日に津競艇場で開催予定の「一般・中日スポーツ津ボート大賞」
- 4月22日~27日に宮島競艇場で開催予定の「一般・第52回 岩田杯」
- 5月1日~6日に芦屋競艇場で開催予定の「一般・スポーツ報知杯争奪 ゴールデンウィーク特選」
- 5月13日~18日に常滑競艇場で開催予定の「G2・第10回 レディースオールスター」
もしも、当初の途中帰郷の理由であった身内の不幸などの“家事都合”であれば、直近の斡旋を削除したことは十分納得できました。
しかし、4月8日時点で明らかになった斡旋削除の理由は“私傷病”。
さらに削除された斡旋の中に1か月以上先の5月13日~18日に常滑競艇場で開催予定の「G2・第10回 レディースオールスター」も含まれていたため、ファンの多くが「レディースオールスターまで欠場するってことは、何か大きな病気や怪我が原因なのではないか⁉」と心配したはずです。
しかし、翌日に事態は急展開を見せます。
渦中の日高 逸子選手自身が“日刊スポーツ”と“スポーツ報知”の取材に斡旋削除の理由を語ったのです。
2025年4月9日(途中帰郷から5日後):ボートレース公式サイトでレディースオールスターの出場取消が発表される
日高 逸子選手は4月8日にこれまで入っていた4件の斡旋を“私傷病”を理由にすべて削除したことが明らかになっています。
削除された斡旋は次のとおりです。
- 4月13日~16日に津競艇場で開催予定の「一般・中日スポーツ津ボート大賞」
- 4月22日~27日に宮島競艇場で開催予定の「一般・第52回 岩田杯」
- 5月1日~6日に芦屋競艇場で開催予定の「一般・スポーツ報知杯争奪 ゴールデンウィーク特選」
- 5月13日~18日に常滑競艇場で開催予定の「G2・第10回 レディースオールスター」
もしも、風邪や新型コロナウイルスなどの感染症に罹患しての斡旋削除であれば、1か月以上先の斡旋まで削除する必要があるでしょうか?
もちろん、4月13日から津競艇場で開催される「一般・中日スポーツ津ボート大賞」の斡旋を削除するだけであればなんとか理解できます。
しかし、この時は1か月以上先の斡旋である5月3日に常滑競艇場で開幕予定の「G2・第10回 レディースオールスター」まで削除しています。
2025年はファン投票で17位となる6,781票を獲得し、選出順位20位で出場権を手にしていた「第10回 レディースオールスター」。
ファンの重いが詰まった票の重みをどの女子レーサーよりも長く理解し、これだけの期待を集めたレディースオールスターまで出場取消をするに至った理由を当時は知る術がありませんでした。
つまり、この時点で4月13日の「中日スポーツ津ボート大賞」の“私傷病”による斡旋削除の理由として『風邪や新型コロナウイルスなどの感染症の罹患の可能性は低い』と考えることができます。
そして注目すべきはBOAT RACE公式サイトに掲載された『第10回 レディースオールスター(常滑)の出場選手繰り上がりについて』です。


この公式発表により、次の2点について明らかになりました。
- 日高 逸子選手が自身の判断により「第10回 レディースオールスター」の出場取消の手続きを行ったこと
- 出場取消手続きをとった理由が『私傷病』であること
つまり、この発表で4月8日に斡旋を削除した「第52回 岩田杯」を含む4つの斡旋を削除した理由は『風邪や新型コロナウイルスなどの感染症の罹患ではない』と判断することが可能。
そのため、日高 逸子選手がすべての斡旋を削除した理由が、BOAT RACE公式サイトで発表されたとおり“私傷病”を理由とするのであれば、その病気や怪我は『1か月以上の長期療養が必要な病気もしくは怪我』ということになるのです。
また、最初は“感染症などの長期化しない軽度の病気やケガ”だったとしても、病院を受診して、その結果次第では欠場期間が長くなることも考えられます。
考えたくはありませんが、“風邪は万病のもと”というように、最初は“軽い病気やケガ”だと思われたものが、思わぬ重病・重傷である可能性も十分にあるのです。


2025年4月10日(途中帰郷から6日後):スポーツ紙の取材に斡旋削除の理由を語ったことが報じられる
日高 逸子選手が自身の判断により「第10回 レディースオールスター」の出場取消の手続きを行ったというショックなニュースにより、ファンの間では『何の病気なのだろう?』『けがの程度はどれくらい?』など、もっと詳しい情報を聞きたいという声が多くあがりました。
そんな中、日高 逸子選手が長期欠場することがWEBニュースで大々的に報じられ、さらに“日刊スポーツ”と“スポーツ報知”の取材に斡旋削除の理由を語ったことが報じられています。
さらに、その日のうちに今度は“日刊スポーツ”と“スポーツ報知”の取材にこたえた日高 逸子選手は、斡旋削除の理由についてより詳しく語っていましたので、ご紹介します。



走り続けてきたので、心と体のメンテナンスをしたくなりました。
体力は大丈夫なんですけど、ひざも左足首も、右手首も悪いので。
満身創痍(まんしんそうい)です。
しばらく休んでから復帰するつもりです。
続いて、記者から復帰時期を問われた日高 逸子選手は、自身の欠場期間と今後の進退について次のように語っています。



8月10日まで辞退を出しています。
それ以降に復帰する予定です。
レディースチャンピオン(浜名湖、P・G1、8月6~11日)には出ません。
2025年4月10日(途中帰郷から6日後):長期欠場がWEBニュースなどで大々的に報じられる
途中帰郷から6日後の4月10日。
日高 逸子選手の長期欠場がWEBニュースなどで大々的に報じられました。
実際に“日刊スポーツ”と“スポーツ報知”に掲載された速報の内容をご紹介します。
記事を読んだファンから寄せられた声も一緒にご紹介しますので、ぜひご覧ください。
【ボートレース】艇界のグレートマザー・日高逸子が長期休養へ「しばらく休みたくなりました」
【ボートレース】艇界のグレートマザー・日高逸子が長期休養へ「しばらく休みたくなりました」
4/10(木) 5:00配信
日高逸子(報知新聞社) 艇界のグレートマザー・日高逸子(63)=福岡=が長期休養することが9日、分かった。
日高は今月の桐生ヴィーナスシリーズに参戦。
4日目を走った後、家事都合で帰郷した。今期はF2で7月17日までF休みの予定だったが、G2レディースオールスター(とこなめ)を含め、F休み前に入っていたあっせんもすべて削除した。
本紙の取材に日高は「体は大丈夫です。しばらく休みたくなりました。復帰したらよろしくお願いします」と話した。
日高は1985年5月にデビュー。史上最年長現役女子レーサーであり、通算2539勝、382優出し優勝は76回。
G1も16優出2Vの実績を誇る。
通算獲得賞金は11億4400万3198円で女子歴代1位。
日高 逸子(ひだか・いつこ)1961年10月7日生まれ。63歳。宮崎県出身。
1985年5月、56期生として芦屋・一般戦でデビュー。87年5月、桐生・一般戦で初優勝。G1は05年3月、大村・女子王座決定戦で初V。昨年5月には歴代44人目、女子では山川美由紀に続いて2人目となる通算2500勝を達成した。
同期には熊谷直樹らがいる。154センチ、45キロ。血液型A。
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長きに渡り女子レーサーの第一人者として活躍を続けてる選手。 Sも果敢に攻める人だし、ストイックに競艇と向き合ってるだろうから疲れもあるのでしょう。
最近で言えば77歳まで生涯現役を貫いた高塚御大の事例もあるし、無理だけは絶対しないで欲しい。
一度身も心もリセットして、また復帰してくれたら応援したいし、ここで引退したとしても自分のやりたいことを存分に楽しんでくれたらと思う。
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セレモニーでは元気いっぱいだったけど心配ですね。
レーサーとして求めてしまうけどご年齢を考えても厳しい面もあると思いますが、いつも本当に素晴らしいファイトだと思います。
自分に置き換えたら真似出来ないと思います。
先ずは焦らずゆっくり休養してほしいです。
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清一さん二郎さんの後を追って最年長勝利記録を作れる可能性があるのは後数名。
最有力候補の1人の日高さんにはもう自分のペースで調整しながらやっていってほしい。
逆にもう少し若くしてこのF2なら限界で引退をしていたかもしれんが今このF2でも引退と言わないなは前向きに捉えていいのだと思う!
共感した:79件、なるほど:10件、うーん:9件



勝手な印象かもしれないですが、F2切ったり事故したり帰郷が増えていて、前節の勝利者インタビューでいつもの溌剌さを感じられなかったので心配していました。
ただでさえ還暦前後ともなれば、女性の身体の負担というのは大きいだろうに、何十年にもわたって女子の第一線で活躍し続けるのはどんなに大変なことか。
しばらく見られなくなるのは寂しいですが、まだまだ見ていたい選手ですし、女子レーサーのみならず多くの後輩レーサーの目標となっている方なので細く永く続けて頂きたいです。
走りたくなるまでゆっくりお休みなさってください。
お酒の飲み過ぎには気をつけて(笑)。
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サラリーマンでも定年迎えてる歳なのに、アスリートで第一線でいるのは凄いこと。
ゆっくり休まれて、今後はそのまま引退されても、出走数少なくされるなども選択肢でしょうが、やりたいようにやれば良いと思います。
共感した:56件、なるほど:5件、うーん:3件



平成元年、多摩川での第2回女子王座決定戦で完全V。 舟券も取らせてもらいましたし、表彰式も目の前で拝見したのですが、競艇場内は無断撮影禁止というルールを知らずにバシバシ撮ってしまいました。
今でもアルバムに貼ってありますが、当時27歳だった逸子さん、本当に可愛かったなぁ。
共感した:45件、なるほど:8件、うーん:8件



最近はF休みが多くなり、年齢からかスタートも見えにくかったり、体力の限界を感じてるのかも知れない。
気持ちも切れちゃった様な気もしないでもない。
本人は一応引退とは言っては無いものの、 もう十分やり切ったと言う所でしょうか?
グレートマザー、こんな歳までA級でホント凄い選手でした。
共感した:45件、なるほど:5件、うーん:7件



昔、平和島のバックで男子のレーサーに艇をゴリゴリ当てて自らの道をこじ開け一着を取った日高選手を見て大好きな選手になりました。
水上の格闘技ボートレースを見せつけられた最高の競走でした。
グレートマザーいっちゃん、ゆっくり休んでまた楽しいレースを見せてください!
共感した:28件、なるほど:3件、うーん:1件
【ボート】日高逸子長期休養へ「満身創痍」復帰8月中旬以降「レディースチャンピオン出ません」
【ボート】日高逸子長期休養へ「満身創痍」復帰8月中旬以降「レディースチャンピオン出ません」
4/10(木) 17:40配信
日高逸子(Nikkan Sports News.) 女子ボートレーサー日高逸子(63=福岡)が、長期休養に入ることが分かった。
10日、日刊スポーツの取材に応じた。
日高は桐生ヴィーナスシリーズを4日目を終え途中帰郷。
F2の日高は、G2レディースオールスター(5月13~18日)に出場した後で60日のF休みに入る予定だったが、出場取り消しの手続きを行っていた。
「走り続けてきたので、心と体のメンテナンスをしたくなりました。体力は大丈夫なんですけど、ひざも左足首も、右手首も悪いので。満身創痍(そうい)です。しばらく休んでから復帰するつもりです」。
日高は85年5月デビュー、通算優勝は76度で、G1は2度優勝。昨年5月の鳴門で、史上44人目となる通算2500勝を達成。
女子レーサーの第一人者として、業界を引っ張ってきた。
復帰時期については、「8月10日まで辞退を出しています。それ以降に復帰する予定です。レディースチャンピオン(浜名湖、P・G1、8月6~11日)には出ません」と語った。
この記事に寄せられたコメントで共感した人が多かったコメントをご紹介します。



グレートマザーとして、元気になって復帰してほしいね。
女子レーサーとして、どこまで現役で続けられるか。
まだ、若手相手でも勝つことができるし、引退した先輩、鵜飼菜穂子が日高に託した思いを受け継いでいる限り、現役で走るだろうね。
がんばってほしいね。
共感した:169件、なるほど:10件、うーん:18件



日高さんについて個人的にもう無理やろと思った事ってもう5回以上あるんだよね。
でもその度に否定され続けてきた。
今回もそれを勝手とはいえ否定されることを期待してしまいますよ。
だってグレートマザーなんだもの。
マジに冗談ではない、復活を心より祈っています。
共感した:104件、なるほど:6件、うーん:11件



8月10日まで期限を明記して辞退って事は戻って来るって待ってて良いんですよね?
63歳でまだ6点以上のA1を狙えるだけでもスゴイです。
高塚先輩の件で気落ちしてるかも知れないですけど同世代の西島が頑張ってるうちは負けないで欲しいです。
共感した:76件、なるほど:4件、うーん:5件



今の選手が悪いとは言わないけど日高さんのレース以外の事も見習って欲しいな。
時代の流れって言われたらそれまでですが…
舟券外しても納得するレースしてくれる数少ないレーサーです。
共感した:57件、なるほど:6件、うーん:8件



63歳にしてA級レーサー。
20代30代のレーサーと対等に 勝負してるだげで、尊敬に値します。
復帰、待ってます。
共感した:54件、なるほど:0件、うーん:3件



鵜飼も凄かったが、この人はまだまだやれると思っていた。
グレートマザーの称号は長年主夫として支えてくれた旦那さんと家族の賜物。
ゆっくり今は休んでもいいんじゃないかな。
共感した:43件、なるほど:3件、うーん:2件



このまま引退だけはせんといてね。
目指せ、高塚さん超え。
共感した:32件、なるほど:0件、うーん:5件



グレートマザーが復帰するのを祈ってます。
生きるレジェンドとして納得いくまで頑張ってください。
共感した:30件、なるほど:0件、うーん:1件
突然の途中帰郷とすべての斡旋が削除されたことに対するSNSの反応
日高 逸子選手の突然の途中帰郷とすべての斡旋が削除されたことに対して、ファンからはどのような反応があったのでしょうか?
その一部を抜粋してご紹介します。
みんな麻痺してるけど、まず63歳やから復帰云々以前に普通に引退しててもおかしくない年齢なんだよな…。
— ソフティー (@sofuti_f1) April 11, 2025
【ボート】日高逸子長期休養へ「満身創痍」復帰8月中旬以降「レディースチャンピオン出ません」(日刊スポーツ)#Yahooニュースhttps://t.co/6dEsWjwP2j
メンテナンスも重要。復帰後のレースを楽しみにしています!
— 甘栗むけた (@X7Gjk) April 10, 2025
【ボート】日高逸子長期休養へ「満身創痍」復帰8月中旬以降「レディースチャンピオン出ません」(日刊スポーツ) https://t.co/JehfYOLnZ8
グレートマザー日高逸子選手大好きです!!女子選手の中でおそらく1番買ってます!!引退では無くて良かったです!!満身創痍!?ゆっくりゆっくり休んでまた元気な走り見せてください!!
— 埼玉ミモラ秋風楓 (@okabeyosikazu) April 10, 2025
ボートレーサーで長期離脱すると言う事は日高逸子選手の年齢から言うと引退を連想してしまいすよね、、、#Yahooニュースhttps://t.co/rZrDIjZs33
— ボート太郎 (@TarouBoat) April 10, 2025
【ボートレース】艇界のグレートマザー・日高逸子が長期休養へ「しばらく休みたくなりました」(スポーツ報知)
— Kichitaro Kisamori (@noseis) April 9, 2025
〉逸ちゃん、引退かと思ってしまった。逸ちゃん、応援しています。ゆっくり休んで、戻ってきて。https://t.co/YCGbnh6NgW
日高 逸子選手がすべての斡旋を削除した理由は?
前述のとおり、日高 逸子選手は4月4日の「第18回 ドラキリュウカップ ヴィーナスシリーズ 第1戦」4日目の第9レースの3着を最後に、シリーズ5日目以降を“家事都合”を理由に斡旋削除・途中帰郷しました。
そして、4月8日に今度は“私傷病”を理由に1か月以上先の5月13日~18日に常滑競艇場で開幕する「第10回 レディースオールスター」を含めたすべての斡旋を削除しています。
発端となった4月4日の途中帰郷の際は“家事都合”だったことで大きく報じられることはありませんでしたが、すべての斡旋を削除した4月8日時点での斡旋削除の理由が“私傷病”に変わっていたことで、ボートレースファンの間ではさまざまな憶測がされました。
さらに、日高 逸子選手が自身の判断により「第10回 レディースオールスター」の出場取消の手続きを行ったというショックなニュースにより、ファンの間では『何の病気なのだろう?』『けがの程度はどれくらい?』など、もっと詳しい情報を聞きたいという声が多くあがるとともに、当時は日高 逸子選手の動向について詳しい情報を知る術もなく、女子ボートレース界のレジェンドの動向に注目が集るとともに、続報が待たれたのは言うまでもありません。
日高 逸子選手が斡旋をすべて削除した理由は心と体のメンテナンスのため
そんな中、日高 逸子選手が長期欠場することがWEBニュースで大々的に報じられ、さらに“日刊スポーツ”と“スポーツ報知”の取材に斡旋削除の理由を語ったことが報じられています。
日高 逸子選手がとったファンの胸中を察したような行いは好意的にとられており、2025年4月10日付の“日刊スポーツ”と“スポーツ報知”の記事で記者からの取材に答えることで、これまでの斡旋削除の理由について次のように語りました。



走り続けてきたので、心と体のメンテナンスをしたくなりました。
体力は大丈夫なんですけど、ひざも左足首も、右手首も悪いので。
満身創痍(まんしんそうい)です。
しばらく休んでから復帰するつもりです。
続いて、記者から復帰時期を問われた日高 逸子選手は、自身の欠場期間と今後の進退について次のように語っています。



8月10日まで辞退を出しています。
それ以降に復帰する予定です。
レディースチャンピオン(浜名湖、P・G1、8月6~11日)には出ません。
日高 逸子選手が記者に対して話した内容では、すべての斡旋を削除した理由を『デビューから40年間走り続けたので、心と体のメンテナンスをしたくなったため』と説明するとともに、調子の悪いひざ・左足首・右手首を酷使しながら満身創痍(まんしんそうい)で戦ってきたことと、長期療養の必要性を示唆したうえで、8月10日以降に復帰する予定で動く意思を示しています。
このインタビューが載せられた記事に対して、日高 逸子選手のファンは応援して復帰を待つ意思を示しています。



グレートマザーいっちゃん、ゆっくり休んでまた楽しいレースを見せてください!



どんなに一流の人でもスランプや辛い時やその他の事情はあります。
詳しい理由は分かりませんが納得できる答えがでるまで休養するのもいいと思います。



年齢のこともあるのである程度の休養も必要だろう。
その間レースのことは考えず、それ以外のことを充実させるのも良いのでは。
多くファンが“日高 逸子選手の走りをしばらく見られないことへの寂しさ”を感じつつも、“復帰まで待ち続けようとする強い意志”を持っているように感じますね。
まずは自身の言葉でファンに向けて状況説明をしてくれた日高 逸子選手の思いに感謝の気持ちでいっぱいです。
そして、4か月の休養期間を取得したことが判明した現在。
日高 逸子選手がまずは焦らずゆっくりと休むことで心と体が回復してくれることを願う気持ちが第一ですが、それと同時に思うことは“またあの走りと活躍を本場で見せてほしい!”“あの笑顔を見たい!”というのがファンの素直な気持ちだと思います。
きっと、メッセージの中に“1日も早い回復・復帰”という言葉が見られないのは、ファンの方々なりの日高 逸子選手への思いやりであり気遣いなのでしょう。
少しでもゆっくり治してほしい・休んでほしい…という想いを感じ取ることができたのは、日高 逸子選手が多くのファンに愛されている何よりもの証と言っても過言ではありません。
日高 逸子選手の復帰時期は2025年8月10日以降⁉
前述のとおり、日高 逸子選手の復帰時期は2025年8月10日以降であると推測されます。
その情報を裏付けるのは日高 逸子選手がインタビューで語った内容だけですが、4か月にわたる長期欠場で酷使してきた調子の悪いひざ・左足首・右手首の状態が少しでも良くなれば、予定どおりに復帰する可能性が高いでしょう。
逆に、満身創痍の身体の回復に時間がかかったり、何かしらの事象が発生した際は復帰時期も遅れることが予想されます。
しかし、多くのボートレースファンが心配しているようなことは一切なく、現時点で日高 逸子選手が“引退”を考えているという事実もないようです。
日高 逸子選手の基本情報
名前 (フリガナ) | 日高 逸子 (ヒダカ イツコ) |
登録番号 | 3188 |
生年月日 | 1961年10月7日 |
身長 | 154cm |
体重 | 45㎏ |
血液型 | A型 |
支部 | 福岡 |
出身地 | 宮崎県 |
登録期 | 56期 |
級別 | A2級 |
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- 3188 日高 逸子選手 公営競技女性最年長勝利記録を更新
#1 60歳で優勝、最低クラスから“奇跡のカムバック”…ボートレーサー日高逸子が走り続ける理由「どん底からはい上がるのが私らしい」
60歳で優勝、最低クラスから“奇跡のカムバック”…ボートレーサー日高逸子が走り続ける理由「どん底からはい上がるのが私らしい」
2022/08/12 11:01
60歳での優勝とA1級復帰という偉業を成し遂げた日高逸子。どん底から這い上がった“還暦ボートレーサー”の闘志の源泉とは スポーツ科学の発展に伴い選手寿命が伸びている中、誰もが目を疑う想定外の年齢で、トップアスリートとして活躍する女性がいる。ボートレース界をけん引する福岡市在住の60歳、日高逸子。2020年秋に最低ランクのB2級まで陥落しながらも、今年7月に最高ランクのA1級に復帰。還暦を過ぎてのA1級へのカムバックは女子では初の快挙となった。「年齢の壁」を乗り越え、いまなおトップレベルで戦う彼女の強さの秘密に迫った。(全3回の1回目/#2、#3へ)
日高は1985年にデビューし、男子と互角以上の戦いを繰り広げ通算2000勝、女子賞金王など数々の金字塔を打ち立てている。生涯獲得賞金は、女子最高の10億円超。専業主夫の夫に支えられ、娘2人を育てながらトップ選手として君臨してきた日高を、人々は「ボートレース界の女王」「グレートマザー」と呼ぶ。身長155センチ、体重46キロの小柄な体を鍛え抜き、闘志ほとばしるレースでファンを魅了してきた。
- 最高ランクから最低ランクに陥落
ところが、そんな順風満帆の道が一気に絶たれ、選手生命の危機に立たされたのは、福岡で開催された2020年9月5日の最終戦だった。
ボートレースでは、選手がフライングすれば舟券は全額返還される。ファンは期待を裏切られ、主催者の収入は減る。選手はその責任を負い、出場停止処分を受ける。1回目は30日間、2回目は60日間、3回目は90日間。その間は無収入となり、3回目ともなると降格処分が下される可能性が高い。
日高は既に2度のフライングを犯していたが、この最終戦を無事故で完走しさえすれば、A1を維持できるはずだった。並の選手なら「安全策」を選ぶだろう。しかし、日高は違った。
「ほかの選手に負けたくないし、守りの戦いはしたくなかった。人気の1号艇だったし、ファンの期待に応えるのに必死だった」
結果はフライング。それも、わずか100分の1秒。まばたきする間もないほどの違反で、日高は150日間の出場停止処分を受け、選手ランク(A1、A2、B1、B2の4階級)はA1級から一気にB2級への降格となった。
レース出場機会が最も少ないB2級への陥落は、選手の間で「地獄の始まり」と言われている。出場停止期間中は無収入の上、A1級に復帰するのは至難の業とされ、ベテランの場合は引退する選手も少なくない。それでも、日高は現役続行を決意した。
「年齢とともに力が落ちるのは仕方ないことかもしれない。でも私の場合は、力が衰えてB2級に降格したわけじゃない。それにフライングを切ってやめるのもしゃくだし、大けがをして引退する選手に比べたら大したことはない。B2級はA1級と比べるとレースは激減するけれど、そこからどこまではい上がれるか、自分でも楽しみにしているんです」
- 出場停止中に実感した「家族の温もり」
崖っぷちから駆け上がる道のりは、決して平たんではなかった。
出場停止期間中は、眠っていても安らぐことはなかった。前検日(レース前日の検査日)の集合時間に遅れる夢を見たり、レースの夢を見たりして、何度も飛び起きてしまうことがあった。不安を払拭するために、日高は思考を切り替えることにした。
「A1級時代は、月の3分の2は家を空けてレースに挑む生活を繰り返していたのが、打って変わって150日間という休みが入った。産休以来こんなに長い休みは初めてで、どうしようかなと頭をひねっていたけど、何もしないともったいないと開き直ったんです(笑)。気分転換の意味も込めて、ボート以外のことに時間を費やしてみようと」
これまでは、レース開催日と重なって断っていた講演活動を開始した。小学校の講演では、子どもたちの生き生きした純粋な瞳に触れて、勇気をもらった。夫と知人に誘われて、ゴルフも始めた。スイングの時と、ボートレースのスタートの時の集中力は相通じるものがあった。新たな発見をした感覚に体が喜び、不思議とリラックスしてプレーをすることができた。
家族団らんの生活も送った。初めて正月を家族4人で過ごせて、改めて夫と2人の子どもの温もりを感じた。
「休みの期間中は、自分を見つめ直すいい機会になりました。精神的には、プラスに働いたと思う」
- 「がんだと思ったら不安で…」6時間の手術を乗り越えて
そうは言っても、すべてが順調だったわけではない。出場停止中はコロナ禍もあってボートに乗っての練習はほとんどできず、肉体的な感覚の衰えは否めなかった。それゆえに処分が明けた当初はレース勘が戻らず、なかなか1着が取れずに悪戦苦闘した。さらに追い打ちをかけるかのように、2021年夏、体に異変が襲った。
倦怠感が取れず、病院で検査を受けると、子宮に異常があることが判明。6時間に及ぶ摘出手術を受けた。
「がんだったらと思ったら不安で引退もよぎったが、結果は良性でよかった」
思い返せば、危機は何度もあった。
トレーニングで縄跳びをしすぎたせいか、50歳を過ぎた頃には両膝を痛めた。歩くのもやっとで、立ち上がってターンをする必殺の「モンキーターン」ができなくなっていた。
「このままでは勝てない」
悩みぬいた末、家族に「引退」の決意を打ち明けた。
すると、次女の萌南(もな)が叫んだ。
「やめないで!」
長女の優那(ゆな)と萌南は、日高を母として、アスリートとして尊敬してきた。萌南の言葉は、そんな正直な気持ちの表れだった。
逸子は思いとどまった。
「娘たちも応援してくれる。やれることはやろう」
膝には痛み止めを打ち、再生治療の手術を受けて回復した。ジムとパワーヨガで基礎体力を養い、2014年の賞金女王決定戦では優勝を飾った。
そんな日高について夫の邦博は「前世はサメかマグロ」と冗談めかして言う。とにかくじっとしていられないのだ。
2015年4月の戸田競艇場のレースでは落水し、入院したこともある。全身打撲で肺には大量の水が溜まっていた。しかし、目が覚めると4日後に迫ったレースに「出る」と言って聞かなかった。
子宮を摘出するという大手術の後もそうだった。医師から「しばらくは安静に」とくぎを刺されていたが、筋力低下を最小限にするため、退院して数日後にトレーニングを再開した。勝利のためには「1日1秒たりとも無駄にしたくない」という不屈の精神がそうさせていた。
- 還暦で優勝、最高ランクに奇跡のカムバック
その積み重ねが、前人未到の奇跡につながった。2022年1月に2番目にグレードが高いA2級に復帰すると、3月11日、尼崎競艇場で行われたGⅢオールレディースの大会で快挙を達成した。優勝戦に勝ち残り、4コースから第1ターンマーク(ブイ)でインコースを差し、見事に優勝を飾ったのだ。
60歳5カ月で通算76度目の優勝。これは自らが持つ女子最年長優勝記録(2020年8月1日、58歳9カ月)を、さらに塗り替える快挙だった。
「まさか60歳になって優勝できるなんて……」
この日は、運も味方にした。スタート直前に西日が差し込み、スタートの目印となる大時計の針が見えづらくなっていた。このため、5、6コースの選手のスタートが遅れ、日高に有利な展開をもたらしたという。
「神様は信じないけど、もしいるとすれば、これまでやってきたご褒美をくれたのかもしれない」
ファンの前でウイニングランを披露し、手を高々と挙げた。
2022年3月11日、女子最年長優勝記録を更新 ※本人提供 夫の邦博によると、世界の公営競技で女子選手が60歳で優勝した前例はなく、最年長記録の可能性があるという。ギネス記録に申請中で、認定されれば逸子は「世界一」の称号を手にすることになる。
このレースも含め、審査期間(2021年11月~2022年4月)の成績は出走回数132回、勝率6.36となり、A1級への昇格条件をクリア。7月からの復帰を決めた。
「私の人生は逆転に次ぐ逆転の繰り返しなんです。どんなにつらくても、努める者は報われると信じてやってきた。どん底からはい上がっていくのが私らしい生き方。努力すれば、人は誰でも逆転できるんだから」
そうきっぱりと口にする日高の「逆転人生」の出発点にこそ、強さと不屈の精神の源流が隠されていた。
<#2へ続く>
引用元:60歳で優勝、最低クラスから“奇跡のカムバック”…ボートレーサー日高逸子が走り続ける理由「どん底からはい上がるのが私らしい」
#2 「夏休みのある朝、母が消えた」父の暴力と貧乏生活…“ボートレース界のグレートマザー”日高逸子60歳が過ごした壮絶な幼少期
「夏休みのある朝、母が消えた」父の暴力と貧乏生活…“ボートレース界のグレートマザー”日高逸子60歳が過ごした壮絶な幼少期
2022/08/12 11:02
本栖研修所時代の日高逸子。ボートレーサーとしての成功の裏には、幼少期の過酷な体験があった ※本人提供 還暦を過ぎても進化の歩みを止めないボートレース界のグレートマザー、日高逸子。その強さの源は、彼女の壮絶な生い立ちにあった。母の蒸発と父の暴力、そして貧乏生活……。不屈の精神の礎となった、過酷な幼少時代に迫った。(全3回の2回目/#1、#3へ)
雄大な霧島連山と鰐塚(わにつか)山に囲まれた宮崎県都城市。自然豊かなこの地で、日高は中学教師の父・薫(かおる)と保育士の母・清美の長女として、1961年10月7日、産声を上げた。
薫は高校時代に重量挙げで国体に出場したスポーツマンで、よく肩車をしてくれた。清美は端正な顔立ちで料理上手。逸子にとって自慢の両親だった。2つ年上の兄・馨也(けいや)も日高をよくかわいがってくれた。
日高逸子(中央)と兄の馨也(左)は、母の優しさに触れながら幸せな日々を送っていた ※本人提供
- 事故をきっかけに父が豹変、そして母は姿を消した
しかしそんな幸せな生活が4歳の時、突如暗転する。薫がオートバイにはねられ、長期の入院生活で教諭を辞めてしまったのだ。清美は生計を立てるためにささやかな飲食店を始めた。
退院して家に戻った薫は、まるで別人になっていた。後遺症の頭痛に悩まされて酒をあおり、暴れた。6畳一間の自宅と隣り合わせの店からは、毎晩のように夫婦の応酬が聞こえてきた。
「うるさい!」
「やめてっ」
酒瓶を床にたたきつける音、清美の悲鳴……。日高と馨也は耳を両手でふさぎ、小さな体を寄せ合った。手を取り合って、何度も親類の家に逃げ込んだ。清美が子どもたちに覆いかぶさって守ることもしょっちゅうだった。
店は客足が途絶え、家計は火の車。子どもたちの洋服すら買えず、破れると清美が繕っていた。
恐怖におびえながら2年が過ぎ、日高が小学校に入学した年。夏休みのある朝、目覚めると清美がいなかった。
「お母さん、お母さん」
何度叫んでも返事はない。どこを捜しても見当たらない。
母が消えた。日高は兄とともに宮崎県串間市にある父方の祖父母宅に預けられることになった。
- 荒れ狂う父、貧乏生活…「私の負けず嫌いの原点です」
祖父母と共に暮らし始めても、父の酒癖の悪さは治らなかった。入退院を繰り返し、家に戻れば荒れ狂って、手当たり次第に臼やテレビまで庭先に投げつける。祖父母と一緒に親類宅に逃げる日々……。幼い兄妹は寂しさのあまりに、近くのバス停で母が迎えにきてくれるのを待った。しかし、その姿を見ることは叶わなかった。
祖父母宅の家計は苦しく、兄と一緒に新聞配達をした。朝から配達をして、夜は集金と、遊ぶ暇はなかった。家では料理、洗濯、掃除や稲刈りをやらされた。苦しい生活だったが、歯を食いしばって耐え抜いた。
「父の暴力、母を失った悲しみ、貧乏生活……。そこから抜け出したいという気持ちが、私の負けず嫌いの原点です。自分の手で何かをつかみたかったし、誰にも負けたくはなかった」
ただ、何かをつかみたかったが、一つのことに集中することができなかった。中学と高校を通して部活動はバスケットボール、テニス、器械体操など転々とした。高校を卒業して入社した地元の信用金庫も、単純な作業が嫌で1年ももたなかった。上京した後も製菓専門学校や旅行専門学校に入学するなど、将来の方向性が定まらなかった。
高校時代、器械体操部に所属していた日高逸子(後方中央) ※本人提供 幼少期から変わらなかったのが、家計の苦しさだった。東京では生活費を稼ぐために時給が高いクラブやラウンジで働き、金策に困った時はサラ金に手を染めることもあった。
- 衝撃的だった「年収1000万円」の競艇選手募集のCM
そんな時、人生を変える出会いが待っていた。ふとテレビをつけると、女子がボートに乗って颯爽と水面を駆け抜ける映像が目に入った。そこにこんなナレーションが流れてきた。
「ボートに乗って年収1000万円」
ぎょっとした。幼い頃から金銭的に苦労してきただけに、この収入は衝撃的だった。それは、偶然目にしたボートレーサー募集のコマーシャル(CM)だった。日高はCMで紹介された電話番号を書き留めると、ダイヤルを回していた。受験資格は年齢17歳以上、23歳未満。1961年生まれの日高は当時22歳。チャンスは1度しかなかったが「これにすべてを懸けてみよう」と願書に必要事項を書き、投函した。
ただ、実際に試験会場に訪れると、血の気が引く思いだった。数隻の小さいボートが波に激しくぶつかり、跳びはねるように水面を走っていた。旋回しようとして転覆するボートも多い。「ボートがどんなスポーツか知らなかったから、試験会場で走るボートを見た時は言葉を失いました」。日高は足がすくみながらも、なんとか33倍の難関を突破した。
- 同郷の教官の言葉「帰るところなんてないじゃないか」
試験に合格した者は、1966年に全国モーターボート競走会連合会(現在の日本モーターボート競走会)がつくった「本栖研修所」で1年間の訓練を受けなければいけなかった。
訓練は過酷そのものだった。ボートは時速80キロに達し、転覆して水面に投げ出されると、後続のボートにひかれて命を落とす可能性もある。一瞬たりとも気を抜けない。
本栖研修所時代の日高逸子(手前左) ※本人提供 日高は入所から2カ月が経っても走ることすらままならない。恐怖感が体を覆いつくし、自信喪失がピークに達した。やめることを決意し、通りかかった教官にその旨を告げると、思いがけない言葉が返ってきた。
「まあ、落ち着け。お前の作文を読んだが、帰るところなんてないじゃないか」
それは、入所すぐの頃に自分の人生を洗いざらい書いた作文を指していた。母の蒸発、父の暴力、祖父母宅での苦難の生活、そして職を転々とした社会人生活……。最後はこう締めていた。
「全て中途半端のままで終わってきました。だけど、それも今日で卒業します。ボートに全てを懸けます」
教官はその内容を覚えていて、日高にこう語りかけた。
「俺も同じ串間の人間だ。頑張ってほしい。とりあえずあと1週間やってみろ。それで駄目だったら、また言ってこい」
「はい、分かりました」
ためらわずに言葉が出た。自分のことを真剣に考えてくれる人がいることに感激した。この“恩人”との出会いがなければ、ボートレースの女王は生まれていなかった。
- 同期の顔から血が吹き出し…トラウマを自力で払拭
研修所での転機はもう一度訪れた。
同期で将来のエースと称されていた長岡茂一が転覆。顔面に後続艇のプロペラが直撃して大けがをした時だ。水面が真っ赤に染まり、救急車に乗せられた彼の顔から血が吹き出していた。日高はその光景が何度もよみがえり、体が震えるほど怖くてたまらなくなって、やめようという考えが頭をよぎった。
でも、今度は自分の力で乗り切った。
「もともと私には才能がないから、人の何倍も練習していた。恐怖心を追い払うためにはもっと練習して、夢中でボートに乗るしかない」
寒風の中、燃料タンクを何度も運び、ボート練習に励んだ。トレーニングを重ねるうちに自然と体を縛り付けていた不安と恐怖が消え去っていったという。
日高逸子は人の何倍もボートに乗り成長した ※本人提供 日高は本栖研修所の訓練を振り返りながら、こう口にした。
「どんなにつらく厳しくても、私の幼少時代に比べれば、大したことはないと思ってやってきた。だから、選手のみんなが『もう二度とやりたくない』と言っている本栖研修所の訓練も、私はもう一度受けてもなんてことないし、自分からやっても構わないくらい(笑)。練習を苦に思っていないから」
この人一倍練習をする姿は、後輩にも語り継がれている。本栖研修所で日高を担当し、鬼教官として知られた本田泰三は、訓練生にこう口酸っぱく言い続けてきた。
「日高という訓練生がいた。彼女は人の何倍も努力に努力を重ねた。俺はあいつがすごい選手になると思っている。努力はうそをつかない。彼女を見習え!」
その本田の読みは見事に的中した。日高は1985年にデビューすると、2年後には一流選手の証明であるA級にランクアップされ、勝ち続けた。そのころ、追い風に乗ってエリート街道を走る日高にとって、将来を大きく左右する“運命の出会い”が待っていた。
<#3へ続く>
引用元:「夏休みのある朝、母が消えた」父の暴力と貧乏生活…“ボートレース界のグレートマザー”日高逸子60歳が過ごした壮絶な幼少期
#3 告白して玉砕すること6回、14年の恋物語の結末は?「僕がヒダカになる」還暦ボートレーサー日高逸子を支える“理想のパートナー”
告白して玉砕すること6回、14年の恋物語の結末は?「僕がヒダカになる」還暦ボートレーサー日高逸子を支える“理想のパートナー”
2022/08/12 11:03
14年の歳月を経て結実した日高逸子と夫・邦博の恋物語。パートナーの献身的なサポートが、ボートレーサーとしての活躍の原動力になっている 1985年にボートレーサーとしてデビューした日高逸子は、トップ選手への階段を着実に上っていった。そんな彼女を支えながら、その能力をさらに開花させてくれる男性との出会いが訪れる。ただ、この恋の物語は、簡単には結実しない。長い長い年月を経て日高は、時代を先取る理想のパートナーを手にすることになる。(全3回の3回目/#1、#2へ)
時は日高が高校を卒業し、上京した頃にさかのぼる。20歳になった日高は菓子職人の道をあきらめ、ツアーコンダクターを目指して旅行専門学校に入学した。その時、同級生として出会ったのが、後に結婚することになる井上邦博だった。
新潟県出身で高校時代は剣道の国体選手でもあった井上は、剣道選手として大学から勧誘の声もかかったが、ネクタイを締めた仕事に憧れ、高校を卒業し医薬品の卸売会社に就職。添乗員の仕事がしたくなり、旅行専門学校に入った。日高とは同い年。しかし2人はすぐに恋に落ちたわけでなく、物語は井上の一方的な片思いからスタートした。
「僕が単純に彼女を好きになっただけでしたが、『将来はこの人と結婚するかもしれない』となんとなく思い込んで、全身全霊で告白しました」
未来の夫婦、日高逸子(前列右)と邦博(前列右から2人目)は旅行専門学校の同級生だった ※本人提供
- 6回の告白も振り向かず…運命の人との出会い
入学2カ月後の授業が終わったある日、井上は日高を呼び止め、顔を真っ赤にして声を震わせた。
「僕と付き合ってくれないかな」
日高は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑いながら告白を一蹴した。
「なに言ってるの。冗談はやめてよ」
井上は優しく、話もよく聞いてくれる友人だったが、「恋愛対象」として見たことはなかった。それに毎朝早く起きて学校で勉強し、夜はバイト。恋をする余裕はなかった。
「交際なんて、これっぽっちも頭になかった。早く世界を飛び回る夢を叶えたかったし」
しかし、井上は諦めない。1カ月過ぎると、また告白。その後も2カ月に1回のペースで告白し続けた。
日高の答えはいつも同じ。
「学生ならちゃんと勉強しましょうよ。ねっ、そうでしょ」
そんなきっぱりとした性格に、井上はさらに引き込まれていった。常に何かを追い求めているような逸子の瞳は輝きを放ち、小さな体で力を振り絞って真っすぐ前を向いて人生を歩いているように思えた。
「彼女は僕にはないものを持っていた。とにかく大好きで(笑)。何回振られても、へこたれはしませんでした」
日高も井上が嫌いだったわけではない。だから、告白を断った後も友人として接していた。
その後2人は別々の旅行会社に就職。この時は互いに運命の人とは知らず、それぞれの道を歩き出した。紆余曲折を経て日高はボートレース界でトップ選手となり、6回も告白して振られた井上はイベント会社でバリバリ働いていた。仲の良い友人として電話や手紙で連絡を取り合っていたが、お互い何度か恋愛も経験し、そのたびに恋人ができた報告や、別れた愚痴などを言い合うような関係だった。
渋谷の旅行会社に勤めていた時の日高逸子 ※本人提供
- 14年の恋物語が結実「僕がヒダカになる」
一生独身を通し、選手を続けよう。そう思いかけていた、1995年のレースの合間のある日のことだった。日高は仕事で福岡に来ていて井上と会った。その時、井上がつぶやいた。
「カンコ、結婚してみようか」
日高を学生時代の愛称で呼んだのは、出会ってからの長い年月、彼女を思い続けてきた井上なりの愛情表現だった。
とは言っても、「してみようか」という問い掛けのような言葉にしかできなかった。井上には全く自信がなかったからだ。しかし、日高の返事は思いもよらないものだった。
「そうね。井上君がマネジャーになってくれたらいいかもね」
条件付きのようにも聞こえるが、初めて日高が自分を受け入れてくれたのだ。そのチャンスを逃すわけにはいかなかった。
「そうだぞ。仕事の送迎から郵便物の整理まで、いいマネジャーになると思うよ」
勢いづく井上の言葉に、日高は照れ笑いを浮かべた。
「そうね。それもいいかもね」
すると、日高は言葉を継ぎ、井上に数々の要望を告げていた。
「井上君、私、選手も辞めたくない」
「井上君、私、ファンに親しまれた日高の姓も捨てたくない」
「井上君、私、本拠地の福岡も離れたくない」……
井上はこれらすべてを「僕がヒダカになる」と応えて受け入れた。
平成8年8月8日、末広がりの日を選んで婚姻届を提出。この時から姓も「井上」から「日高」に変わり、邦博は妻を支える夫になると決意した。専門学校で出会ってから14年。長い長い恋物語はついに結実し、時代を先取る“婦唱夫随”の結婚がスタートした。
- 夫が支え続けた「勝負師」の生活
仕事を辞めて、専業主夫となった邦博だったが、日高が翌1997年3月に長女を出産し、2カ月半後にレースに復帰してからは目が回りそうな毎日だった。ボートレーサーはレース開催前日の検査からレース終了までの概ね1週間、食事も含めて施設内に缶詰めにされ、携帯電話もパソコンも持ち込めない。この間、留守宅では邦博が、冷凍保存してある母乳を湯煎で戻して3時間おきに長女に授乳し、オムツを替え、一切の子育てを担当した。離乳食も健診も、公園デビューも邦博がこなした。
復帰4戦目で日高は優勝した。その時のことをこう述懐する。
「出産してまさかこんなに早く優勝なんて。ツキもあったと思うけど、家族の存在が大きかった」
独身時代は、優勝してもわびしさと孤独感があった。家に帰ると、いつも独りぼっちで、心から喜びを分かち合う人がいなかった。今は違う。勝っても負けても、家族がいる。
レースが終わり、電車に乗って駅に着くと、夫と子どもが笑顔で温かく迎えてくれた。味わったことのない幸福感が、大きなエネルギーになっていた。
2人の娘と邦博の愛情が、日高逸子の大きな武器となっている ※本人提供 1999年7月には次女を出産。その3カ月後にはレースに復帰し、翌2000年の獲得賞金は2000万円を突破、2001年には3700万円を超え、出産してもトップクラスで活躍できることを改めて証明した。
日高にとって邦博はかけがえのない存在だ。酒好きの日高とは対照的に、邦博は酒もたばこもギャンブルもやらない。日高のスケジュール管理と賞金や経費の帳簿作成を完璧にこなし、娘たちの弁当を15年作り続けていた。もちろん学校や塾の送り迎えを欠かしたこともない。家族を守るために2001年に始めた空手は5段。今年6月にあった九州地区総合演武大会では準優勝を飾った。
家族のために直向きに生きる邦博がもし専業主夫でなかったら、トップレーサーとして走り続ける自分はいなかったと日高は思う。
「家のことを心配せずレースに集中できる。家庭では母、レースが始まると勝負師。そのオンとオフがはっきりしていることがプラスになっているんです」
1カ月のうち、およそ25日間はレースがあり、全国24カ所の競艇場を飛び回る。その間は邦博に家事を任せるが、家に帰ると、日高が取り仕切っていた。
「家にいる時間が少ない分、やれる時はちゃんと家事をしたかった」
料理には自信があった。食事や子どもの弁当は全て手料理。冷凍食品は一切使わなかった。
朝は4時半から5時には起きる。ファンからの手紙に目を通し、返事を書く。それから朝食の準備だ。レース開催中、邦博は朝5時半に起きているが、日高がいる時は7時近くでいい。日高が申し出た夫婦のルールだった。
- 「この世界が好きなんだと、つくづくそう思うんです」
結婚して26年が過ぎた。日高はA1級に復活しトップレーサーとして走り、2人の娘は大学を卒業し、関東と関西で一人暮らしをしている。
「夫はこの上ない理想のパートナー。彼が払った犠牲を無駄にしたくない。それだけは嫌。娘たちも応援してくれている。家族にはレースで恩返ししたい」
「夫は理想のパートナー」と笑顔で語る日高逸子 トレーニングも年齢に合ったメニューを取り入れている。ホットヨガやジムに加えて、集中力、記憶力、動体視力を鍛える脳のトレーニングを始めた。
「私はこの世界が好きなんだと、つくづくそう思うんです。24会場を転々とし、戦う相手もその時々で違う。いつも新鮮でまったく飽きない。しかも、まだ負けたら悔しい思いがある。この思いがある限り、全力でこの世界で生きていきたい」
鵜飼菜穂子が持つ61歳の女子最年長記録更新は、もう目の前に来ている。
不遇の少女時代を過ごし、職を転々とする中でボートレースに出会い、夫とともに2人の子を育てながら厳しい勝負の世界を生き抜いてきた。
「努力は嘘をつかない。そして、人は誰でも逆転できる」
自ら信じるその言葉を胸に、水上のグレートマザーはこれからも新たな伝説を築いていく。
<#1、#2から続く>
引用元:告白して玉砕すること6回、14年の恋物語の結末は?「僕がヒダカになる」還暦ボートレーサー日高逸子を支える“理想のパートナー”
日高 逸子選手の過去戦績
日高 逸子選手の主な戦歴は以下のとおりです。
確認できる2000年後期以降の記録になりますが、日高 逸子選手は2000年後期にはすでにA2級で活躍しており、2001年前期にA1級へ昇級すると、2008年前期までの7年半にわたってA1級をキープ。
その後、2008年後期にA2級に降級を許したものの、次期にはふたたびA1級に返り咲きを果たしています。
2009年前期にA1級へ再昇級してからは、約12年もの長きにわたってA1級を維持するほどの素晴らしい成績の持ち主でした。
2005年後期には優勝4回・優出9回という好戦績を積み上げて、自己最高勝率7.94を記録。
最近でも、2020年後期に優勝1回・優出7回という戦績で6.53という素晴らしい勝率をマークしました。
復帰後の活躍にも期待が大きくなるとともに、公営競技女子最高齢勝利記録をどこまで伸ばせるのかにも期待したいところです。
【ボートレース】日高逸子が女子2人目の通算2500勝「本当にうれしい」62歳のグレートマザー歓喜
【ボートレース】日高逸子が女子2人目の通算2500勝「本当にうれしい」62歳のグレートマザー歓喜
2024年5月22日 15時20分スポーツ報知44人目となる通算2500勝をマークした日高。レース後はVサインで笑顔 日高逸子(56期・福岡支部)が5月22日、ボートレース鳴門の第5Rでイン逃げを決めて通算2500勝を達成した。歴代44人目で女子レーサーとしては山川美由紀に続いて2人目。
2005年の女子王座(大村=現在のプレミアムG1レディースチャンピオン)など、G1優勝2回の実績を誇る日高は1961年10月7日生まれの62歳で、初出走は1985年5月の芦屋。2500の白星を39年をかけて積み上げた。
シリーズ初日5R、1号艇の日高は枠なりのインからコンマ16の3番手スタート。トップスタートのカド4コース西岡成実の外まいを浴びかけながらも気合の1M先取りで決着をつけた。
グレートマザーの異名を取る女子ボート界の大選手は大きな節目の勝利に「(初日の)前半レースですぐに決めることができて本当にうれしいです」と笑顔をみせた。
前検は手応えの悪さに険しい表情だった機力も「ギア交換をして、ペラ調整もしていったら、上向いてきた。行き足が良くなりました」と調整、整備でステップアップ。デビューから40年目に入る2日目からも白星を量産する構えだ。
引用元:【ボートレース】日高逸子が女子2人目の通算2500勝「本当にうれしい」62歳のグレートマザー歓喜
【ボートレース】日高逸子が女子最年長勝利記録を更新 〝戦友〟の鵜飼菜穂子さんが「イツコちゃん」の秘話を明かす
【ボートレース】日高逸子が女子最年長勝利記録を更新 〝戦友〟の鵜飼菜穂子さんが「イツコちゃん」の秘話を明かす
2022年11月10日 11:002日に女子最年長勝利記録を更新した日高逸子 2日に行われたボートレース児島のGⅢオールレディース5日目4Rで日高逸子(福岡)が道中の競り合いを制して1着。これが61歳26日での勝利で公営競技の女子最年長勝利記録を更新。女子ボートレースの歴史を築き上げてきた「グレートマザー」にまたひとつ勲章が加わった。この偉業達成を受けて、これまでの記録保持者(61歳25日)で日高とともに戦い続けてきた〝戦友〟の鵜飼菜穂子さんが緊急寄稿。日高がトップレーサーとして走り続けられる〝理由〟を明かした。
ボートレーサーが選手生活を長く続けられる理由のひとつには他の競技と違ってサイクルが短いのもあると思う。だいたい1節が4~6日ぐらい。ボロモーターを引いても、いつまでもそれが続くわけじゃない。またメンバーも替わる。気持ちを切り替えられるしね。
歳をとるにつれ、性格的に丸くなって、真ん丸ちゃんになる人が多いけど、イツコちゃんとか強い人はいつまでも負けて悔しいという思いを持ち続けて向上心につなげてるのよね。まあそれがプロだし、ファンの方に支持されるんでしょうね。
それにスタートをきっちり行って自分から攻めるレーススタイルはお客さんにとってもやっぱり魅力があるのよね。F3(半年間のうちにフライング3本)をやってから一時、スタートでウジウジしてたこともあったけど、まあそれは仕方ない(笑い)。ファンの方に人気があるのは立派なことよ。
プロの世界でやっていくには悔しさがなくなったら終わり。私がSGに出ていたころは仕事場には泣くために行くもの、と思っていたけど、イツコちゃんも同じだったと思うのよね。女子トイレで彼女が泣いてる姿もよく見てきた。あれだけの強い気持ちがないとずっと上でやっていけないわよね。
人のことを気にしないし、朱に交わるようなこともしない。それもここまでやれているうちの1つだと思う。
ダンナさんのバックアップがあるのも大きいと思う。私は親の介護もあって(晩年は)思うように走れなかったけど、誰かの支えがないとこの記録はできなかったでしょうね。それにしても60を超えてこれだけやれるのはすごいことよね。
まあ今回、私にいろいろ語らせてもムダだと思うのよね。だってこれから先、何度も更新するわけだからさ。日高と谷川(里江)。この2人は70歳までやるんじゃないかなあ。まあ永遠にやっときなさい(笑い)。
日高 逸子選手がボートレーサーを目指したきっかけ
日高 逸子選手が「ボートレーサーになろう」と思ったきっかけは、専門学校に通っていた22歳の時にテレビCMで「ボートに乗って1,000万円」と言うキャッチコピーを目にしたことでした。
幼い頃から父親の暴力に怯える日々を送り、母親は父の暴力に耐えかねて姿を消してしまったという、ドラマのような壮絶な過去を持つ日高 逸子選手。
祖父母の元に身を寄せたものの家計は火の車で、実兄と一緒に新聞配達の仕事をしながら、大変な苦労を経験して育ったそうです。
日高 逸子選手は幼少期からボートレーサーとして成功するまでずっと金銭的に苦しい思いをしてきました。
若い時にはクラブやラウンジで働いたり、生活苦から消費者金融からお金を借りなければならい時期もあったと聞けば、その大変さが想像できると思います。
そんな時に偶然飛び込んできたボートレースとの運命の出会いであり、きっかけが、前述した「ボートに乗って1,000万円」をうたったCMでした。
幼い頃からつらい経験をしてきたからこそ、苦しい生活から抜け出したいと強く思い続けていた日高 逸子選手は『このチャンスに賭けてみよう』と一念発起。
意を決してすぐさまボートレース養成所の入所試験に応募すると、見事に入所試験に合格して、ボートレーサーになるための切符を掴み取ったのです。
幼少期から続いた長年の苦労が、日高 逸子選手の真骨頂である負けず嫌いの精神の原点になっているのかもしれません。
これまでの“七転八倒の逆転人生”について、日高 逸子選手はこのように語っています。



子供の頃にしても、こんなに不幸なんだから、大人になったら幸せな人生が待ってるはずだと思っていたんです。
悪いことのあとにはいいことがある。
人生はその繰り返しだと思ってるんです。
私は何度もどん底を味わったけど、今はハッピーです。
今が苦しいと感じている若い人は、何もしないで落ち込んでいるのではなく、自分なりに努力してほしい。
いちばん下にいるなら、そこから先は上がっていくだけです。
挫折しないで頑張っていれば、必ず報われると思います。
日高 逸子選手の師匠は元ボートレーサーの大屋 勝利さん
日高 逸子選手の師匠は同じ福岡支部所属、18期の元ボートレーサー・大屋 勝利さんです。


名前 (フリガナ) | 大屋 勝利 (オオヤ カツトシ) |
登録番号 | 1936 |
生年月日 | 1943年11月21日 |
身長 | 165cm |
体重 | 60㎏ |
血液型 | B型 |
支部 | 福岡 |
出身地 | 広島県 |
登録期 | 18期 |
引退時の級別 | B2級 |
デビュー時期 | 1965年1月 |
最終出走日 | 2006年5月7日 |
引退時期 | 2006年 |
元ボートレーサーの大屋 勝利さんは1943年生まれ、福岡支部所属のB2級レーサーでした。
残念ながら、2006年に63歳で引退を表明しています。
あまりに古い記録になってしまうため、大屋 勝利さんの詳しい戦績などについては残っていないものの、1979年3月26日に浜名湖競艇場で開催された「SG・第14回 総理大臣杯争奪 鳳凰賞競走(現・ボートレースクラシック)」で優出し、3着を取ったこともある実力ある選手でした。
日高 逸子選手の夫である日高 邦博さんは、師匠である大屋 勝利さんの妻から『レースに出かける朝だけはケンカしないように』というアドバイスを受けて、ずっと大切に守り続けたそうです。
弟子として支持していた日高 逸子選手だけではなく、夫までもが師匠とその家族を信頼し、操縦や整備技術だけでなく、日常の心構えまでも学んでいたというのは、プライベートでも深い親交があったことが伝わるエピソードでしょう。
師弟として、ボートレースのい・ろ・はだけではなく、家族としてボートレーサーを支えていく心構えを早いうちに伝授され、夫の献身的な“内助の功”に支えられたからこそ、今日の日高逸子選手の“強さ”があると言っても過言ではありません。
【2025年3月】高塚 清一選手の訃報に接して気持ちを語る
2025年3月3日、史上初の喜寿を迎えた現役最高齢選手で、自身の持つ最年長勝利記録を更新し続けるなど、長きにわたってボートレース界に貢献してきた高塚 清一選手(静岡・20期)が、3月1日に急逝していたことが報じられました。
高塚 清一選手といえば、2007年6月に史上72人目で通算2,000勝を達成し、2025年1月25日には平和島競艇場で開催された「JESCOカップ・平和島劇場開設15周年記念」で自身が持つ歴代最年長勝利記録を更新したほどのベテランレーサー。
日高 逸子選手にとって、自分よりもベテランで数少ない先輩である高塚 清一選手は、選手としての目標であり道しるべだった存在。
高塚 清一選手の訃報に接して、自身の引退について思うところもあったなかで、気持ちを奮い立たせてくれていた存在がいなくなってしまったことは、日高 逸子選手のメンタルに大きな影響を与えたに違いありません。
それを感じさせる内容を語っていたのでご紹介します。



選手は皆、高塚さんは別格だし怪物だと言ってました。
あの年齢まで選手をやれるのは、とても難しい事です。
年齢と共に身体能力は落ちる一方なので。
私は最近、いつも辞める事を考えながら走っています。
でも高塚さんの事を聞かされる度にもう少し頑張ろうと思わされてきました。
高塚さんは選手の励みの存在でもありました。
さらに日高 逸子選手は自身の“引退”について、次のように語っています。



私は、目標がないとモチベーションが維持できないタイプなんです。
結果が出ない時期は、引退を考えたこともありました。
でも、2014年にクイーンズクライマックスを獲り、まだ現役でやれる自信が湧いてきた。
『女子最年長レーサーになる』という新しい目標を立てたのもその時期ですね。
これをきっかけに、引退を考えるのは止めました。
(今後の目標は)通算2,500勝の目標も達成したので、とりあえず1万走めざそうかな。
まだ9,100なん走なんですけど、とりあえず1万走ぐらいは目指そうかなって軽い目標をもっています。
まだ引退しないでもう少し頑張りたいって思います。
【ボートレース】史上最年長現役女子レーサー日高逸子「高塚さんは別格だし怪物」~高塚清一さんの訃報(ふほう)に接して
【ボートレース】史上最年長現役女子レーサー日高逸子「高塚さんは別格だし怪物」~高塚清一さんの訃報(ふほう)に接して
3/3(月) 20:28配信
日高逸子 日高逸子の話
とにかく残念です。選手は皆、高塚さんは別格だし怪物だと言ってました。あの年齢まで選手をやれるのは、とても難しい事です。年齢と共に身体能力は落ちる一方なので。私は最近、いつも辞める事を考えながら走っています。でも高塚さんの事を聞かされる度にもう少し頑張ろうと思わされてきました。高塚さんは選手の励みの存在でもありました。4月の津の斡旋も一緒だったので、パワーをもらえると楽しみにしていましたので、本当にとても残念です。
でも、ボートが本当に好きで、今まで続けてこられたのでしょうから、とても幸せな人生だったのでしょうね。表彰式に出て戴きたかったのですが、出られなかったのも高塚さんらしいです。私も2年くらい前、ファンの方から頼まれてサインをお願いしたのですが「俺なんかサインするような選手じゃない。植木に頼め」と言われて断られました…でも逆にそれも高塚さんらしくて素敵だなと思いました。
それは戸田ボートだったのですが、その時も3コースから鮮やかに捲って1着を取られました。それなのにすぐその後もバタバタとペラを叩いておられました。私ならもうそのまま、そのペラで後半もいくのに…先輩は凄いなと思っていました。
引用元:【ボートレース】史上最年長現役女子レーサー日高逸子「高塚さんは別格だし怪物」~高塚清一さんの訃報(ふほう)に接して
日高 逸子選手に弟子はいない
日高 逸子選手の弟子についても調査しましたが、迎え入れた弟子の情報を見つけることはできませんでした。
若手時代は師匠である元ボートレーサーの大屋 勝利さんに師事し、強者揃いの福岡支部で多くの先輩方が操縦・整備する姿を見て、時に指導を受けながら、練習に励んで技術を磨いたのでしょう。
そして、今日も支部を問わず多くの後輩に尊敬されているというエピソードから、特定の弟子はいなくとも、多くの福岡支部の後輩やボートレース界の後進が日高 逸子選手選手の背中から学ぶものがあるに違いありません。
日高 逸子選手の生涯獲得賞金は11億円越え!
新人時代から約40年もの長きにわたってボートレース界をけん引し続け、毎年高額の賞金を獲得し続けてきた日高 逸子選手。
1985年にボートレーサーとしてデビューしてから、男性選手とも互角に戦い、数々のタイトルを獲得してきました。
「レディースチャンピオン(女子王座決定戦)」では1989年の第2回大会と2005年の第18回大会を制し、9年後の2014年12月26日~31日に住之江競艇場で開催された「第3回 クイーンズクライマックス(賞金女王決定戦競走)」を制したことで、史上初の女子2大タイトルを制覇。
2014年12月26日~31日に住之江競艇場で開催された「第3回 クイーンズ クライマックス(正式名称は賞金女王決定戦)」では、イン戦を見事にものにして“冬の女王”の称号と賞金、そして日本財団会長賞としてカルティエのティアラを戴冠しています。
さらに、2024年5月22日~25日に鳴門競艇場で開催された「第7回 徳島の地ビール「あらたえエール杯」競走」では、初日の第5レースでイン逃げを決めて通算2,500勝を達成するなど、もはや“神の領域”とも称されるような偉業を還暦を超えてから樹立し続けているだけあり、“艇界のグレートマザー”の異名は伊達ではありません。
ちなみに、2025年4月現在までに通算2,500勝を達成した選手は46人だけ。
日高 逸子選手以外にどのような選手が通算2,500勝を達成しているのかは、こちらの記事をご覧ください。
2024年12月現在、日高 逸子選手の生涯獲得金額は11億2,470万円。
女子選手では年齢と同様に女子選手過去最高額の生涯獲得賞金を積み上げて、その記録は歴代1位。
これからも自身が打ち立てた金字塔のさらに上を行く記録を樹立することが望まれており、今後も生涯獲得賞金は増え続けていくことでしょう。
【引退の危機】3度のフライングでB2級に降格
日高 逸子選手は2020年前期、1期のうちに3度のフライングを切ってしまったことで引退の危機にさらされました。
フライングをした選手には厳しい罰則があり、3度目のフライングともなると合計180日間のフライング休みが課されてしまいます。
その間はレースにも出場できずに無収入となるため、選手にとっては死活問題です。
この3度目のフライングによって、日高 逸子選手は2021年前期に出走回数不足でA1級からB2級への降級を余儀なくされました。
のちに日高 逸子選手は当日ついて次のように語っています。



F3を切ったのは無理をしなくてもいいレースだったんですけど、私は1号艇で、2号艇の人が勝負にきたので、まくられたくない!と思って一緒に行ったらフライングになってしまったんです。
その頃、西島 義則さんの“F2で勝負を降りるくらいならレースに行くな”という言葉も頭にあったんですが、西島さんと私ではスタート勘も違うし、終わったあとにバカだなってチョー反省しました(笑)
どの選手にも言えることですが、ボートレーサーはどのような理由があれ、一度B2級に落ちてしまうと出走回数が激減するため、A1級への復活は難しいと言われています。
当時、日高 逸子選手は合計180日のフライング休みのうちの30日をすでに消化していたため、この後は150日間レースに出られなくなりました。
このような絶望的な状況のなかでも、『引退は全然考えなかった』という日高 逸子選手は“還暦を前にしての出直し”を決意。
日高 逸子選手は当時のことを振り返って次のように語りました。



引退は全然考えなかったです。
後輩の男の子から“日高さん、引退すると思っていました”と言われたこともあったんですけど、フライングを理由に辞めたくはなかった。
休み中は毎日、午前中に家を出てホットヨガに行って、ジムなどに移って夕方帰るような生活を送っていました。
選手会の手伝いとかもしてたけど、コロナによる規制でボートに乗る練習はあまりできなかったので、休み明けのレースは怖かったですね。
語っていたとおりの地道なトレーニングを続け、2021年2月17日に鳴門競艇場で開催された「一般・ヴィーナスシリーズ 第22戦 なるちゃんバースデー5周年記念」で実戦復帰を果たしました。
復帰後、うまくボートが操れなかったレースのあとに引退が頭をよぎったこともあったそうですが、そういうときには次のレースで1着を取れていたため『やっぱりまだ続けられるな』と考え、それからも強い決意を胸にA級への返り咲きを目指して努力を続ける日々が続きます。



このフライング休みがあった影響で、日高 逸子選手はボートレーサーになって初めて正月を家族4人で過ごしたそうです。
しかし、追い討ちをかけるように、日高 逸子選手の身をさらなる試練が襲いました。
その“試練”というのが、2021年の夏に体調が落ちていた日高 逸子選手に見つかった子宮筋腫でした。
当時はガンの可能性もあったため、開腹手術で子宮を全摘出することになりましたが、幸運なことに術後の病理診断で腫瘍の検査結果は良性。
まさに現役生活の存続を脅かした危機に、日高 逸子選手は次のように思ったと言います。



悪性だったら辞めるしかないなと思ってたんですけど、良性だったんです。
これは“まだ、やれ”ってことなのかなって、すぐにトレーニングを再開しました。
患部を取っちゃったら盲腸とかいっしょで、体に悪いところはないですからね。
じっとしていられないんです。
今は若いときほどSGに出たいというような気持ちは強くなくなったので、この先は元気に長く走れたらいいですね。
これまでは苦しみながら走ってきたので、ここからは楽しみながら走りたいです。
検査結果に胸を撫でおろした日高 逸子選手ですが、さすが“艇界のグレートマザー”の異名をとる一流選手。
退院後数日で復帰に向けたトレーニングをはじめたのでした。
さらに、大手術を乗り越えた日高 逸子選手は、持ち前の“不屈の精神”で人一倍の努力を積み重ねて、無事レースに復帰を果たしたのでした。
フライングがおよぼす欠場期間への影響
まずはじめに、フライングはされます。 級別審査対象期間の前期初日にあたる5月1日と後期初日にあたる11月1日にリセット
しかし、選手の中にはどうしても勝ちたいレースでスタートに勝負をかけた結果、1本にとどまらず、同じ期に複数のフライングを切ってしまうこともあるのです。
その場合には、同一の級別審査対象期間中に起こしたフライングの本数に則した“フライング休み”を取得することになります。
1本目のフライングだけでも30日、2本目以降は1本あたりの日数も増えるなど、選手にとってとても厳しい処罰が科されることになるのです。
フライング | の回数加算日数 | フライング休みの日数 |
1回 | 30日 | 30日間 |
2回 | 60日 | 90日間(30+60) |
3回 | 90日 | 180日間(30+60+90) |
4回 | 180日 | 360日間(30+60+90+180) |


女子最年長優勝記録を塗り替えてA1級に復帰!
2021年後期に3度のフライングでB2級に降級してしまった日高 逸子選手でしたが、長期に及ぶフライング休みと大手術を乗り越えて、ついに2021年2月17日に鳴門競艇場で開催された「一般・ヴィーナスシリーズ 第22戦 なるちゃんバースデー5周年記念」で実戦復帰を果たします。
復帰後の日高 逸子選手は2022年前期にA2級に昇級を果たすと、その勢いのまま次期にはA1級へ返り咲き、完全復活を印象付けました。
60代の現役ボートレーサーのA1級復帰は、女子選手としては史上初の快挙。
さらに、日高 逸子選手は2022年3月6日~11日に尼崎競艇場で開催された「G3・オールレディース競走 あまがさきピンクルカップ」で、田口 節子選手や守屋 美穂選手といった名立たる有力選手を相手に優勝を勝ち取ります。
この優勝で、日高 逸子選手は自らが持つ女子最年長優勝記録を58歳9か月から60歳5か月に更新しました。
60歳を過ぎてもなお、女子ボートレーサーの第一線で走り続ける日高 逸子選手は、本当にかっこいいですね。
世界の公営競技で60歳以上の女子選手が優勝した前例はなく、ギネス世界記録に申請中だといいます。
認定されれば、日高 逸子選手は女子最年長優勝記録保持者として「世界一」の称号を手にすることになるのです。
出走表


単勝オッズ
枠番 | 級別 | 選手名 | 単勝オッズ |
---|---|---|---|
1 | A2 | 山下 友貴 | 1.7倍 |
2 | A1 | 田口 節子 | 3.2倍 |
3 | A1 | 守屋 美穂 | 3.4倍 |
4 | A2 | 日高 逸子 | 12.6倍 |
5 | A1 | 松尾 夏海 | 16.5倍 |
6 | B1 | 渡辺 千草 | 39.6倍 |
3連単オッズ
買い目(人気順) | オッズ(倍) |
---|---|
1–2–3(1番人気) | 7.5 |
1–3–2(2番人気) | 9.0 |
1–2–4(3番人気) | 15.2 |
1–3–4(4番人気) | 15.6 |
1–3–5(5番人気) | 16.5 |
2–1–3(6番人気) | 17.7 |
1–2–5(7番人気) | 21.0 |
レース結果


同期(56期)の注目選手
日高 逸子選手の同期である「56期」にはどのような選手がいるのでしょうか。
2025年4月現在、現役で活躍されている選手を以下にまとめました。
現時点で選手登録が残っているのは、日高 逸子選手を含めて3名しかいません。
しかも、そのなかで勝率6.0台をキープしながら、A級を維持し続けているのは日高 逸子選手ただ一人です。
選手生活も40年の節目を迎えて、心と体の衰えを感じる中で、それでも人気レーサーとして第一線で活躍を続けることの“過酷さ”を見たような気がします。
登録番号 | 名前 | 支部 | 級別 |
3202 | 三品 隆浩 | 東京 | B1 |
3207 | 田村 美和 | 東京 | B1 |
- 三品 隆浩選手(3202)/1965年4月16日生まれ/東京/B1
- 田村 美和選手(3207)/1965年11月1日生まれ/東京/B1
日高 逸子選手のデビュー戦
日高 逸子選手の初勝利
日高 逸子選手の初優勝
日高 逸子選手の初勝利は1987年5月30日。
デビューから約2年後、群馬県にある桐生競艇場で開催された一般競走のできごとでした。
初出走から活躍を見せていた日高 逸子選手ですが、早くもデビューから1年4か月後の1986年9月20日に徳山競艇場の水面で初優出を果たし、6か月間の試行錯誤の末につかんだ初優勝でした。
こちらについても詳細を確認することはできませんでしたが、2年で初優勝を飾ったということは、それだけ日高 逸子選手の才能や努力が優れていたことを意味します。
日高 逸子選手の獲得賞金
日高 逸子選手のこれまでの獲得賞金は次のとおりとなっています。
2001年前期以降の記録になりますが、その当時から日高 逸子はA1級で活躍しており、2008年後期にA2級に降級するまで、7年半もの長きにわたってA1級を維持。
さらに、次期である2009年前期には早々にA1級へ返り咲くと、2021年前期に3本のフライングによりB2級に降級するまで12年もの長きにわたってA1級をキープするほどの素晴らしい成績の持ち主でした。
その後も複数回にわたりA1級に昇級を果たし続けて、選手生活40年のうち、記録に残っている2000年後期以降だけでも、なんとA1級を21年もの長い期間維持し続けたほどの実力者です。
しかし、2024年後期にA2級へ降級してから現在までA1級に返り咲くことはできていません。
同様に2019年前期の勝率6.81以降は勝率が徐々に低下して、2022年後期には自己最低勝率5.57を記録しています。
2005年後期には優勝4回・優出9回という圧倒的な好戦績を積み上げて、自己最高勝率7.94を記録。
さらに6年前には、2019年前期に優勝1回・優出7回の戦績と勝率6.81という成績を残していました。
2019年5月21日~26日に福岡競艇場で開催された「SG・第46回 ボートレースオールスター」に出場して以降、SG競争への出場歴はなく、2022年3月11日に尼崎競艇場で開催された「G3・オールレディース競走 あまがさきピンクルカップ」以降は優勝歴もないなど、成績が振るわない状況が続いていたものの、近年では主戦場を主に一般戦へ移して活躍を続けていました。
そのため、もちろん獲得賞金も全盛期よりは減少していることが予想できると思います。
年度 | 級別 | 賞金ランキング | 賞金女王ランキング | 獲得賞金 |
---|---|---|---|---|
2025年 | A2 | 818位 | 85位 | 4,901,000円 ※2025年04月18日現在 |
2024年 | A1→A2 | 298位 | 20位 | 27,293,848円 |
2023年 | A2→A1 | 349位 | 24位 | 26,136,000円 |
2022年 | A2→A1 | 212位 | 14位 | 30,531,500円 |
2021年 | B2 | 967位 | 94位 | 12,680,766円 |
2020年 | A1 | 423位 | 32位 | 21,640,000円 |
2019年 | A1 | 98位 | 8位 | 35,931,500円 |
2018年 | A1 | 95位 | 6位 | 34,704,000円 |
2017年 | A1 | 165位 | 11位 | 27,753,400円 |
2016年 | A1 | 144位 | 10位 | 26,552,000円 |
2015年 | A1 | 156位 | 12位 | 25,785,000円 |
2014年 | A1 | 40位 | 1位 | 40,965,000円 |
A2級ボートレーサーの平均年収は約1,800万円といわれています。
日高 逸子選手は2025年4月現在はA2級であるものの、2015年から2020年まではA1級の期間が長いため、今回の比較対象は直近の期間が最も長かったA1級レーサーの平均年収3,000万円とします。
直近3年間のデータから算出した平均年収は、約2,799万円程度。
2023年と2024年に獲得賞金額はA1級レーサーの平均年収3,000万円に届いていないものの、A2級ボートレーサーの平均金額1,800万円とA1級の平均額の中間よりやや多い金額くらい。
直近3年間の平均年収をひと月に換算すると月収が約233万円越えですから、かなりの高収入です。
このような結果になった理由としては、ここ10年間で年収3,000万円を超えた年は2018年・2019年・2022年の3度のみだったことがあげられるでしょう。
さらに、A1級選手の平均年収差が大きいため、上に2億円近く稼ぐトップレーサーがいれば、下は2,000万円程度。
このような背景には、獲得賞金額の高いSG競走やG1競争に比べて、一般戦や女子戦の賞金額が低いことがあげられます。
2019年は一般戦で1度の優勝と16回の優出を果たしたことで、最近では最も高い獲得賞金額を記録しました。
ちなみに、直近10年間の平均年収を計算したところ、直近3年間の平均年収よりも100万円ほど少ない約2,690万円となりました。
一般的な60代の社会人女性の平均年収は約280万円とされていますので、日高 逸子選手の平均年収は約10倍の金額に相当します。
さらに獲得賞金額が最高額となった2019年は、年間出走数が327走で過去最も多く、そのうち1着数が73回。
「G2・第3回 レディースオールスター」と「G2・第22回 レディースチャレンジカップ」で優出したほか、一般戦で1度の優勝を果たしたことで、直近10年間の中では最も高い獲得賞金額を記録しました。
近年(2025年は除く)は獲得賞金額が2,600~3,000万円前後で推移していたようですが、全盛期の優勝歴・優出歴のあった時期の獲得賞金額はもっと高額だったことは容易に想像できるでしょう。



ボートレーサー全体の平均年収は1,700万円といわれています。
日高 逸子選手のSNS
日高 逸子選手のファンならレースでのかっこいい姿やプライベート、素敵なオフショットが気になるところですよね。
SNSを調査したところ、Instagramのアカウントが開設されていました。
X(旧Twitter)についてはアカウントがみつからないので、開設されていない、もしくは匿名かと推測されます。
ほかにも日高 逸子選手ご自身はYouTubeでチャンネル開設していませんが、ご自身が登場する動画が数多く投稿されています。
なお、Instagram・X(旧Twitter)ともに「#日高逸子」で検索することで、たくさんの写真を閲覧することができます。
- Instagram itsukohidaka
- X(旧Twitter) @kanko3188
- YouTube チャンネル開設していない
- ブログ
アカウント名はitsukohidakaです。
日高 逸子選手は2017年2月からInstagramを開設しており、投稿は16件ありました。
ちなみにフォロワーは2,213人(2025.4.8現在)で、思っていたよりも少ない印象です。
これから女子ボートレース界の広告塔として“女子選手最年長記録”を更新し続けることで、今後ますますフォロワーが増えることが予測されます。
更新頻度はそこまで高くないものの、9割がプライベートに関する投稿といった印象。
肝心の投稿内容については、オフの日にボートレーサー仲間と楽しく休日を過ごしている様子に関する投稿が多いですが、なぜかところどころに飲み会やお酒が写りこんでいるような…
老若男女問わず多くのレーサーと仲が良いようで、一緒に写った写真がよく投稿されていますし、なかには現選手会長の瓜生 正義選手と打ち上げを楽しんだ様子を確認することもできます。
真夏のユニバーサルスタジオジャパンや甲子園球場を楽しむ写真のほかに、元野球選手で巨人軍のヘッドコーチも務めた元木 大介さんと一緒に写る写真など、さまざまな内容が投稿されているので必見です。


・X(旧Twitter)
日高 逸子選手は2011年2月からX(旧Twitter)を開設しており、投稿は4,984件ありました。
フォロワー数がなんと16,000人(2025.4.8現在)を超えているので、その人気のほどがよくわかります!
プライベートな内容が中心のInstagramに対して、X(旧Twitter)は自身が投稿しているアメブロの記事にリンクするツイートが主となっており、日高 逸子選手のプライベートな情報発信の場はブログのようです。
そのため、Instagramも時にのぞきつつ、X(旧Twitter)をフォローしておいて、更新されたブログに目を通すことをおすすめします。


アメブロを投稿しました。
— 日高 逸子 (@kanko3188) March 16, 2025
『日南市特産品』#アメブロ #日南市
https://t.co/TwiHsCH5PD
アメブロを投稿しました。
— 日高 逸子 (@kanko3188) March 3, 2025
『高塚清一先輩』#アメブロ #高塚清一選手
https://t.co/lVjMZ4nvoS
アメブロを投稿しました。
— 日高 逸子 (@kanko3188) February 2, 2025
『丸亀から児島へ』#Ameba20周年 #ありのままがここにある #丸亀
https://t.co/5MyqfWDCO8
アメブロを投稿しました。
— 日高 逸子 (@kanko3188) January 18, 2025
『祝3000勝!』#Ameba20周年 #ありのままがここにある #3000勝
https://t.co/69SNpWOiNf
アメブロを投稿しました。
— 日高 逸子 (@kanko3188) December 21, 2024
『たくさんのプレゼントありがとうございます🙇♀️』#Ameba20周年 #ありのままがここにある #プレゼント
https://t.co/luIyrwvTiX
・YouTube
日高 逸子選手はYouTubeチャンネルを開設していません。
しかし、ボートレース公式チャンネルなどで登場する動画を見ることができます。
インタビューやトークショー、そのほかにもレース映像など多くの動画が投稿されていましたので、気になる方はチェックしてみてはいかがでしょうか。
ぜひこの機会に日高 逸子選手のこれまでの軌跡を振り返ってみてくださいね。
- 【逸子の部屋】福岡PGⅠ第38回レディースチャンピオン開催記念番組第二弾! 日高逸子選手が人気女性レーサー達とほろ酔いトーク!【日高逸子選手/魚谷香織選手/深川麻奈美選手/神里琴音選手】
- 【生きるレジェンド】~グレートマザー日高逸子 その生きざまとは?~ 【2025年8月12日(火)まで期間限定配信】
- 【ニシヤマの部屋#12 フルバージョン】グレートマザー降臨「西山貴浩&日高逸子」
- 【日高逸子】お宅訪問で大盛り上がり!【渡邉優美の私を励まして下さい!前編】
・アメブロ【私は あきらめない】
日高 逸子選手は2011年3月からアメブロでブログ「私は あきらめない」を開設しており、記事は1,410件ありました。


前述のX(旧Twitter)でもご紹介したとおり、日高 逸子選手が新しい記事を公開すると、X(旧Twitter)に最新情報が投稿される仕組みとなっており、日高 逸子選手のプライベートな情報発信の場はブログのようです。
更新頻度は月に1~2回程度でそこまで高くないものの、9割がプライベートに関する投稿といった印象。
肝心の投稿内容については、日南市ふるさと大使に就任していることから、地元の特産品のPRをはじめ、応援してくれるファンに向けたメッセージや結構な頻度でおいしいお酒が登場します。
飾らない日高 逸子選手の本音が綴られており、その中には自身の“引退”について書かれた内容もありました。
ここでは、2024年5月25日に通算2,500勝を達成した際に公開された文章を原文のままご紹介します。
この度 5月22日鳴門ボートレース場にて
ついに 2500勝する事が出来ました〜✌️
これもひとえに 長年の皆様の応援のおかげです🙇♀️
ここまで 私を頑張らせて戴き
誠にありがとうございました🙏
昨年末 常滑で怪我した時には
本当に引退を考えたのですが
もう少しで2500勝と思ったら
辞めるのが勿体なくて…
2500勝する事をモチベーションに頑張ってきました
(中略)
2500勝出来て 嬉しくてたまらないというよりホッとしたという感じ
(中略)奇しくも この2500勝した日は
デビューから39年経った日
翌日から選手生活40年目に突入❣️
次のモチベーションは何にしよう…
とりあえず1走1走 頑張って走ります🚤
引退の事は いつも考えてるけど
それは いつでも出来るので
とりあえず 今じゃないなと…
このように あきらめなければ
良い事が起きるのだから👍










まとめ
現役生活40周年を迎え、インタビューやブログなどで自身の“引退”についてふれる機会がふえた日高 逸子選手。
YouTubeで“尊敬する先輩”と語っていた高塚 清一選手が2025年3月に急逝され、目標だった通算2,500勝を達成したことで、次の目標を探すために一度休養をとることにしたようです。
これまで長い間走り続けて、子供を産んだ時も、手術を受けた後も、短期間で実戦復帰をしてきた日高 逸子選手が選択した長期欠場。
これまで語られなかった『体力は大丈夫なんですけど、ひざも左足首も、右手首も悪いので。満身創痍(まんしんそうい)です。』という言葉から、この選択の重さを感じる気がします。
日高 逸子選手の年齢であれば、現役をいつ退いてもおかしくはありません。
しかも、これだけの結果を残し続けた女子ボートレース界の最高齢レジェンドの勇退とあれば、多くのファンが敬意をはらうはずです。
まだまだ日高 逸子選手の活躍する姿を、走る姿を見たい・応援したいと思うファンは大勢います。
美人だとか、可愛いだとかでなく、長い年月をかけてこれほどの人気を自分の実力で獲得してきました。
ファンの喜ぶ姿を見たい、喜ばせたいという日高 逸子選手の気持ちが、『心と体のメンテナンスをしたくなりました。しばらく休んでから復帰するつもりです。』という言葉に繋がったのでしょう。
レースで良い結果を残して、上位のグレードレースに出場するだけが一流選手ではありません。
ボートレーサーが真摯に、ひた向きに努力する姿をみせてくれるからこそ、私たちはボートレースに魅力を感じるのではないでしょうか?
日高 逸子選手の“走り”や“諦めずに挑み続ける姿勢”は私たちに勇気を与えてくれます。
そして、ファン思いの丁寧なコメントと、SNSでの情報発信力があれば、これからも多くのファンに愛され続けるのではないでしょうか。
どんなにハズレのモーターを引いても、熟練の整備技術と操縦技術でしっかりと期待にこたえてくれる信頼できる選手。
決めるときはしっかり確実に決めていく、着実な勝利の積み重ねで得た“勝負勘”こそが日高 逸子選手の最大の武器だといえるでしょう。
今回の途中帰郷と斡旋削除、そして長期欠場を決めた理由が、ご自身の口から語った言葉で判明したことで、日高 逸子選手とファンの繋がりがより一層強くなったと感じます。
日高 逸子選手の心と体がこれからの欠場期間で回復することをを心より願うとともに、回復した暁にはふたたび巧みなハンドルさばきを見せてもらえる日を楽しみに待ちたいと思うばかりです。
これから復帰に向けて戦い続ける日高 逸子選手とそばでサポートをするご家族と医療スタッフ、そして支え続けるファンを応援しつつ、復帰後のレースにますます期待が大きくなる日高 逸子選手のさらなるご活躍を願って、応援し続けたいと思います。
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