2025年1月15日、大阪支部の60期レーサー・倉谷 和信選手が、1月14日に日本モーターボート競走会に引退届を提出したことが報じられました。
倉谷 和信選手といえば、級別制(A1級・A2級)が導入された当初から52期連続でA1級を維持してきましたが、2021年後期には初めてA2級へ降級。
その当時から『(A1級の条件)90走がきつくなってきた』と体力面での衰えに不安をにじませるとともに、全盛期のような活躍を見せることが難しくなっていました。
さらに最近では『闘争心も薄れてきた』と弱音を口にする姿も見られたことから、“ガッツ倉谷”とも称されたベテランの精神面を心配する声も聞かれるなど、ファンの間では「今までと様子が違う」「どこか調子が悪いのでは?」という声が聞かれるほど。
そして、2024年12月12日に住之江競艇場で開催された「G3・マスターズリーグ第9戦」最終日の第2レースで6着となると、8日後の12月20日にそれまで入っていたレースの斡旋をすべて削除したことで今後の動向が注視されていた矢先の引退発表。
60期としてデビューした倉谷 和信選手にとって、2025年はデビュー38年目の戦いに向けて意気込み新たに踏み出すはずだった年であり、33年ルールも適用される年。
2025年前期の勝率は4.45でしたが、今期の成績だと2025年後期は勝率3.74まで低下するものの、引退勧告を受けるような成績ではありませんでした。
しかし、ボートレース界の第一線で長年戦い続けた倉谷 和信選手にすれば、体力の衰えに加えて、引退勧告の基準となる勝率3.80のボーダーをクリアできないことへのプレッシャー、さらには今までの選手生活で最も低い勝率を更新してしまう状況の3重苦に胸を締め付けられたはずです。
このことから、引退勧告ではなく、一身上の都合やモチベーションの低下といった理由で潔く身を引く決断をしたのでしょう。
倉谷 和信選手の基本情報から魅力的な人柄・師匠と愛娘・同期の注目選手・獲得賞金額まで、近年の成績や過去の発言から考え得る引退理由について考察していきたいと思いますので、ぜひ最後までご覧ください。
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倉谷 和信選手の基本情報
名前 (フリガナ) | 倉谷 和信 (クラタニ カズノブ) |
登録番号 | 3290 |
生年月日 | 1963年10月7日 |
身長 | 164cm |
体重 | 54㎏ |
血液型 | O型 |
支部 | 大阪 |
出身地 | 大阪府 |
登録期 | 60期 |
級別 | B1級 |
デビュー日 | 1987年5月14日 |
最終出走日 | 2024年12月12日 |
引退日 | 2024年12月14日 |
倉谷 和信選手は1963年生まれ、大阪支部所属のB1級選手で、ボートレーサー養成所の入所試験では8回目にして合格を果たした苦労人です。
“入念なストレッチ”をボートに乗り込む前のルーティンにしており、“イン屋”としてインコースダッシュから逃げ切るレーススタイルと、「ガッツ倉谷」や「ガッツボン倉谷」の愛称で人気を博しました。
1995年後期に級別のランク分けがはじまって以降、2021年前期まで現役選手では52期連続でA1級を維持するという、並大抵の努力では達成できない偉大な記録を成した選手として知られています。
SG競争での獲得タイトルこそありませんが、2013年の年末から翌年3月まで54走連続3連対をキープして、記録が残っている1996年以降では、中島 孝平選手の62走に次ぐ歴代2位の記録保持者。
※2013年12月27日に宮島競艇場で開催された「一般・匠シリーズ 第4戦 宮島名匠決戦」の第5レースから、2014年3月9日に三国競艇場で開催された「一般・坂井市制8周年記念」第1レースまで
パッと見は少々いかつい雰囲気を醸し出すものの、口を開けば大阪人独特の軽妙な話術を兼ね備えて、人柄は『面白いことを言ってなんぼ』と茶目っ気たっぷりな人情味のある“ジェントルマン”で、“個性的世代”と称される60期・四天王の一人として、平成初期から中期のボートレース界を盛り上げてきました。
※60期四天王とは、上瀧 和則選手(2024年8月引退)・濱村芳宏選手(2023年2月引退)・烏野賢太選手・倉谷和信選手をさします。
過去にインタビューで、マスターズ世代に突入した倉谷 和信選手に“ニュージェネレーション”と呼ばれる、峰 竜太選手・桐生 順平選手・毒島 誠選手ら若手世代の台頭・世代交代という現実について問われた際には次のように語っています。
「そう、だんだんそうなるんや。G1だって出られればまだまだやれる。でもこの業界もずっと同じ顔でってわけにもいかん。新しい血も入れていかんと。でも俺の目標はまだずっとSG優勝!それも1号艇で優出してな」
この言葉は『できることをやる。やっても報われない時もあるけどいい時もある。目の前のことを一つひとつするだけ!』を競艇選手としての信条に掲げる倉谷 和信選手らしく、目の前のことに誠実に向き合い、ひた向きに上を目指す勝負師の一面をあらわしているように感じました。
1990年代後半から2003年くらいまではSG競争の常連選手として、グレードレースでも優勝戦に駒を進めて、通算9回優出したものの載冠の夢はかなわず。
SG競争における最高順位は、20005年に住之江競艇場で開催された「第20回 賞金王決定戦競走(ボートレースグランプリ)」の2着でした。
ちなみに、2020年5月13日には娘の関野 文選手(4927・118期)が地元・住之江競艇場でデビューを飾っており、一般戦を中心に近年ではG1競争にも出場するなど、活躍の場を広げています。
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- 選手ふれあいコーナー(倉谷和信選手&関野文選手)
- 選手ふれあいコーナーダイジェスト(倉谷和信選手)
倉谷 和信選手の過去戦績
倉谷 和信選手の主な過去戦績は次のとおりです。
あまりに前の記録のため、1997年5月1日以前の記録については詳細を確認することができませんでした。
日付 | レース名 | レース場 | グレード | 戦績・概要 |
1987年5月14日 | (タイトル不明) ※1997年5月1日以前のため、詳細不明 | 住之江 | 一般 | デビュー |
1987年7月 | (タイトル不明) ※1997年5月1日以前のため、詳細不明 | 蒲郡 | 一般 | 初勝利 |
- | タイトル不明) ※1997年5月1日以前のため、詳細不明 | - | - | 初優出 |
1990年4月 | (タイトル不明) ※1997年5月1日以前のため、詳細不明 | からつ | 一般 | 初優勝 |
1997年5月13日 | G1 全日本王座決定戦 ※1997年5月1日以前のG1出場歴については調べられないため、このレースが確認できた最も古いG1出場歴です | 芦屋 | G1 | G1初出走 |
1997年5月15日 | G1 全日本王座決定戦 ※このレースが確認できた最も古いG1勝利歴です | 芦屋 | G1 | G1初勝利 |
1998年2月16日 | 第41回 近畿地区選手権 | 住之江 | G1 | G1初優出 |
1998年2月16日 | 第41回 近畿地区選手権 | 住之江 | G1 | G1初優勝 |
1997年5月19日 | 第25回 笹川賞競走(ボートレースオールスター) ※1997年5月1日以前のSG出場歴については調べられないため、このレースが確認できた最も古いSG出場歴です | 桐生 | SG | SG初出走 |
1997年5月19日 | 第25回 笹川賞競走(ボートレースオールスター) ※このレースが確認できた最も古いSG勝利歴です | 桐生 | SG | SG初勝利 |
1997年7月20日 | 第3回 オーシャンカップ競走 ※このレースが確認できた最も古いSG優出歴です | 三国 | SG | SG初優出 |
2016年6月9日 | 住信SBIネット銀行賞 | 下関 | 一般 | 通算50優勝達成 |
2018年6月17日 | 富士通フロンテック杯 | 大村 | 一般 | 115人目の通算2,000勝達成 |
2024年12月12日 | マスターズリーグ 第9戦 | 住之江 | G3 | ラストレース |
倉谷 和信選手は1987年5月14日に大阪支部のホームプール・住之江競艇場の一般戦で60期生としてデビューを果たすと、2か月後に蒲郡競艇場で開催された一般戦で初勝利。
そして、デビューから2年11か月後の1990年4月にからつ競艇場で開催された一般戦で初優勝を果たし、2016年6月に通算50優勝、2018年6月に115人目の通算2,000勝を達成しています。
確認できた最も古い記録を参考にしてG1競争を見ると、1997年5月に芦屋競艇場で開催された「全日本王座決定戦」でG1初出走・G1初勝利を果たすと、1998年2月に住之江競艇場で開催された「第41回 近畿地区選手権」でG1初優出にしてG1初制覇を達成。
同じく、SG競争では1997年5月に桐生競艇場で開催された「第25回 笹川賞競走(ボートレースオールスター)」でSG初出走とSG初勝利。
そして、デビューから10年2か月後の1997年7月20日に三国競艇場で開催された「第3回 オーシャンカップ競走」でSG初優出を達成しましたが、通算9度のSG優出を果たしたもののSG競争で優勝することはできませんでした。
※実際の西島 義則選手のG1競争における初出走から初優出までの記録と、SG競争における初出走から初優出までの記録については、確認できた最古の記録をご紹介しております。
また、2000年後期以降の記録になりますが、その当時から倉谷 和信選手はA1級で活躍し、2021年前期まで現役選手では52期連続でA1級を維持するという偉大な記録を残していました。
しかし、2021年後期にA2級へ降級してからはA1級に返り咲くことはできず。
B1級に降級した2023年前期から次第に勝率は低下し、2024年前期に1度だけA2級に昇級するものの、2024年後期には自己最低勝率4.36を記録しています。
2000年後期には優勝2回・優出4回という好戦績を積み上げて、自己最高勝率7.98を記録。
さらに直近では、2019年後期に優勝1回・優出7回の戦績と勝率7.24という全盛期にも劣らない成績を残していましたが、2021年後期にA2級へ降級してからはA1級に返り咲くことはできず。
B1級に降級した2023年前期から次第に勝率は低下し、2024年前期に1度だけA2級に昇級するものの、2024年後期には自己最低勝率4.36を記録し、このままいけば2025年後期の勝率は3.74で、引退勧告のボーダーである3.80をクリアできなくなっていました。
確認できた範囲になりますが、2000年以降の選手生活のうち24年間にわたってA級、22年間A1級を維持するという素晴らしい成績です。
37年7か月間の選手生活での出走数は7,861走で、通算2,205勝・293優出で優勝は57回、生涯獲得賞金は13億4,317万円3,495円という記録を残しています。
現役生活最後のレースは、2024年12月12日に地元・住之江競艇場で開催されたG3競争「マスターズリーグ 第9戦」最終日、第8レースの6着でした。
俺の目標はずっとSG優勝
俺の目標はずっとSG優勝
2012年04月21日 10時00分
【走る昭和伝説(3)】倉谷和信(48歳、大阪)
「ホンマは嫌やねん…名人戦」。苦笑とも嘲笑ともつかない微妙な笑みを浮かべながら、こう切り出した——。
登録番号は3290番。今回の名人戦(24日開幕、ボートレース下関)に揃って初出場する登番1つ違いの高橋淳美と同期同支部。彼ら60期には選手会副会長の要職に就いた上滝和則や烏野賢太、浜村芳宏、谷川里江ら…。ついこの間まで若手に毛が生えたくらいと思っていたこの世代もいよいよ名人戦へと参入する日が来た。常に短く刈り上げられた頭髪にきっちり手入れの行き届いた口ひげ。一見いかついこわもてながらその瞳に険はない。いったん、話しだせばいかにも気のいい〝浪花のにーさん〟。それが倉谷和信。
さて、冒頭の「名人戦は嫌」という理由を問いただせば答えは単純明快。「48歳という現実を、年齢という数字を嫌でも突きつけられるやん。もうそんな年になったんかぁ…。まだまだ若いつもりやったのに…ってな」と笑い飛ばす。
そう言いながらも「でもな、レースに出るからにはもちろん〝優勝〟をねろうとるよ。当然、チャンスはあるわけやから」と勝負へのこだわりは捨てていない。「俺の師匠は野中(和夫=引退)さん。そんで長嶺(豊=引退)さんもおって…。で、俺の後に松井(繁)が来て。まあ俺とか松井はそんな環境の下でやってきたから。ええ勉強をさせてもらったわ」。大阪支部=ボートレースの聖地・住之江で育まれた伝統、勝者のメンタリティーを受け継いでいるというわけだ。
そんな倉谷も現実には2009年のグラチャンを最後にSG戦線から遠ざかりGIもスポット参戦という狭間のポジションに立たされ確実に世代交代という波にさらされている。
「そう、だんだんそうなるんや。GIだって出られればまだまだやれる。でもこの業界もずっと同じ顔でってわけにもいかん。新しい血も入れていかんと。でも俺の目標はまだずっとSG優勝!それも1号艇で優出してな。そのSGに出るのにこの名人戦はいいチャンスと思っているよ」
舞台となる下関は過去5年で6節の出走。前回(昨年6月)にFを切った以外はすべて優出(V1)という好相性のプール。「そやねん。ええやろ、下関は。進入かていろいろ考えていくで。ただ内を取るだけ〝趣味のイン〟では意味ないからな。最近は臨機応変にやってきたけど、下関は他場に比べて内が、インが利く気がするねん。まあ名人戦は先輩ばかりやけど遠慮はせんよ。ずっとそうやってきたからな。とにかく優勝を目指して頑張るわ」——。実に面白い男が参戦してきた。
【からつGIマスターズチャンピオン】倉谷和信のポリシーは「仕事きっちり〜♪」
【からつGIマスターズチャンピオン】倉谷和信のポリシーは「仕事きっちり〜♪」
2014年4月10日 11:00
【からつGIマスターズチャンピオン:カウントダウンコラム(1)】
“名人”世代の匠の技が激突するプレミアムGI「第15回マスターズチャンピオン(名人戦)」が15日、からつで開幕する。大レース直前恒例の連載コラム「新タイトルは俺が貰った!」の第1弾は倉谷和信(50=大阪・60期)をピックアップ。近況絶好調男を直撃。パッと見は少々いかつい雰囲気を醸し出すがその実、人情味のある“ジェントルマン”。当然、大阪人独特の軽妙な話術も兼ね備え「面白いことを言ってなんぼ」とちゃめっ気たっぷりだ。
そんな彼のリズムは近況すこぶるつきだ。昨年末の宮島から6節連続優出でV3。2節前のまるがめで準優3着と連続優出はストップしたとはいえ、いやはや絶好調だ。
本人は「ど〜やろ? まあエンジンの実績があったので結果が出ていたけど、そこらへんはあまり気にしてない。そりゃあ出ぇへんエンジンなら出ることない。いい時もあれば悪い時もあるよ」といたって冷静だ。
これまでSGタイトルこそあと一歩のところで逃してきたが、優出は9回を数えるし、GⅠは32優出でV4。当然、第15代“名人”となる資格は十分にあるはず。
そんな倉谷には“立派な”現在も更新中の記録がある。1995年に級別ランク分けがA1、A2…となって以降、38期連続でA1をキープ中。これは現役選手では13人しかいない。「自慢できるのはそこしかないわ」と謙遜するが、並大抵のことではない。ボート界の“荒波”を渡り歩いてきた自負もある。
「これだけやってたらレース形態もコロコロ変わる。全部がええ経験だった。持ちペラ制度の時は休みの日も寝る間も惜しんでペラ作りに没頭した。その経験のおかげで選手生命が5年は延びていると思う。エンジンもそうやし、結果的にはプラスに働いている」
そんな彼の信条は「関西の人ならテレビで見たことあると思うけど『仕事きっちり〜♪』のフレーズが自分のポリシー。できることをやる。やっても報われない時もあるけどいい時もある。実際、優勝を積み重ねれば来年のクラシック(総理杯)出場のチャンスも膨らむ。目の前のことを一つひとつするだけ」。
今大会の舞台となるからつは2節で2優出と好相性の水面。「からつは水面が広くてレースがしやすい。コースは内がいいけど相手もいるし臨機応変に。出るからには1回くらい優勝したいね。まずは準優に乗らないと意味がないので“仕事きっちり”してきますわ」と虎視眈々とVをうかがう。3度目の正直で“マスターズチャンピオン”の称号を手に入れられるか。
銀行男?倉谷和信が通算50V!!
銀行男?倉谷和信が通算50V!!
2016/06/09 22:55
「住信SBIネット銀行賞」は9日に優勝戦が行われ、2号艇の倉谷和信が2コースから差し切って、昨年1月の徳山「住信SBIネット銀行賞」以来の優勝を飾った。場は違うものの同タイトル、さらに同じ2号艇からの差し切りと昨年の再現を果たした。通算では節目となる50回目の優勝。レースは枠なり3対3の進入で行われ、インからコンマ04のトップスタート決めた熊谷直樹が先マイ。しかし、ターンはやや流れ気味となり、そこへ倉谷が絶好の差しハンドルをねじ込んだ。2マークは倉谷が先取り、熊谷は差し返しを狙うがわずかに届かず、倉谷に軍配があがった。3着争いは大混戦になったが、最終的に野澤大二が制した。
2連単2-1は1310円(5番人気)、3連単2-1-3は5230円(19番人気)。
倉谷 和信選手が獲得したG1タイトル
- 1998年2月16日:第41回 近畿地区選手権(住之江競艇場)
- 2000年2月29日:開設46周年記念 北陸艇王決戦 (三国競艇場)
- 2000年3月9日:開設43周年記念 太閤賞 (住之江競艇場)
- 2007年2月17日:第50回 近畿地区選手権(びわこ競艇場)
倉谷 和信選手の娘は関野 文選手
倉谷 和信選手の娘は同じ大阪支部所属の118期・関野 文選手です。
名前 (フリガナ) | 関野 文 (セキノ アヤ) |
登録番号 | 4927 |
生年月日 | 1993年11月1日 |
身長 | 149cm |
体重 | 44㎏ |
血液型 | O型 |
支部 | 大阪 |
出身地 | 大阪府 |
登録期 | 118期 |
級別 | A1級 |
デビュー日 | 2016年5月3日 |
関野 文選手の愛称は「あやっぺ」。
父親である倉谷 和信選手譲りの強気な握っていくレースを魅力として、2019年の「住之江フレッシュルーキー」に選出された経歴を持つ選手です。
2016年5月3日に大阪支部のホームプール・住之江競艇場でデビューを飾ると、アイドル並みのルックスと可愛いアニメ声で人気を集めました。
デビュー前に父である倉谷 和信選手とお母さまが離婚して、関野 文選手は母親に引き取られたことから母方の“関野姓”で選手登録をしています。
2022年3月25日に大村競艇場で開催された「G3・オールレディース 第15回 蛭子能収杯」以降、1年6か月の長期欠場をしたため、一時は引退説がささやかれたこともありましたが、後にYouTubeで第1子を出産していたことが判明しました。
高校を卒業後は看護師を目指して看護学校に入学しましたが、実習の授業についていけず中退。
その後は1年ほどアルバイト漬けの生活をしていたといますが、将来について考えた時に『もっと稼いで、もっとおいしいものをたくさん食べたい!』と思ったことをきっかけにボートレーサーの道を志したと言います。
しかし、その選択を聞いた父の倉谷 和信選手は猛反対。
しかし、愛娘の希望を無碍にもできず入所試験の受験を渋々許したところ、なんと1回目の受験で合格してしまったそうです。
当時について、父の倉谷 和信選手が親子で共演したトークショーで次のように語っています。
「どうせ無理やろと思ったから『まあ受けてみろ』というたら、1回で試験を通ってしまった。俺は8回もかかったんですよ」
養成所時代もリーグ勝率は女子8人中トップの6.99を記録し、男子選手にも負けない活躍を見せるとともに、卒業記念競争でも優出3着に入るほどの実力を身につけてデビューを果たしました。
2世レーサーとしても注目を集めつつ、149cmという小柄な体格から繰り出される力強い走りでファンを魅了し続けており、近年は徐々に活躍する機会も増えているため、今後の成長に期待したい選手だと言えます。
関野 文選手の過去戦績
関野 文選手の主な過去戦績は次のとおりです。
日付 | レース名 | レース場 | グレード | 戦績・概要 |
2016年5月3日 | 2016ラピートカップ | 住之江 | 一般 | デビュー |
2017年5月17日 | 山口シネマカップ | 若松 | 一般 | 初勝利 |
2018年7月9日 | 男女W優勝戦 サンケイスポーツ旗争奪 飛龍賞競走 | 住之江 | 一般 | 初優出 |
2019年8月7日 | 第33回 レディースチャンピオン | 蒲郡 | G1 | G1初出走 |
2019年9月22日 | 第6回 ヤングダービー | 三国 | G1 | G1初優勝 |
関野 文選手は、2016年5月に大阪支部のホームプール・住之江競艇場で開催された「一般・2016ラピートカップ」でデビューすると、1年後に若松競艇場で203走目にして初勝利。
そして、デビューから2年2か月後の2018年7月9日に住之江競艇場で開催された「一般・男女W優勝戦 サンケイスポーツ旗争奪 飛龍賞競走」で初優出を飾っていますが、2025年1月現在まで14度の優出を果たしているものの、初優勝はつかめていません。
G1競争で見ると、2019年8月に蒲郡競艇場で開催された「第33回 レディースチャンピオン」でG1初出場、翌月の「第6回 ヤングダービー」でG1初勝利を達成。
まだ初優勝は果たせていませんが、あの鎌倉 涼選手を育てた、大阪支部が誇る「なにわのくノ一」五反田 忍選手から指導を受けてたということで、今後の活躍に期待が集まります。
成績については、2017年前期に早々と1期でB1級に昇級すると、2019年後期にA2級。
その後はB1級に降級し、2022年3月から1年6か月の長期欠場の影響でB2級に降級したものの、復帰後にはA2級へスピード復帰。
2024年後期には初めてA1級に昇級し、4度の優出を果たして自己最高勝率を6.47に更新しています。
これだけ好調で活躍もしていることから、初優勝の栄冠を手にする日も近いでしょう。
関野 文選手と同じ118期には、SG競争でも活躍する宮之原 輝紀選手(4939)・新開 航選手(4932)をはじめ、吉川 貴仁選手(4926)・栗城 匠選手(4928)・木谷 賢太選手(4931)・戸敷 晃美選手(4936)・小芦 るり華選手(4938)がいます。
【競艇】父親の引退報道の日に勝利 関野文選手
【競艇】父親の引退報道の日に勝利 関野文選手
2025.01.15 20:03
118期の関野文選手が、父親の引退報道があったこの日、若松競艇9Rに5号艇で出走し勝利を上げました。関野文選手は、福岡県にある若松競艇場で2025年1月13日に開幕した「GGO2カップ」に出場。
シリーズ3日目となったこの日は9R予選に5号艇で登場しました。
レースでは、艇番通りのダッシュ5コースから進入。
1周1マークでまくり差してバックで4艇身抜け出しました。
あとはそのまま先頭をキープ。
1着でゴールしました。この日は、午前中に父親で60期の倉谷和信選手が引退したことが報道。
メモリアル勝利となりました。
倉谷和信の娘関野文「父と一緒にSGへ」/住之江
倉谷和信の娘関野文「父と一緒にSGへ」/住之江
[2016年5月1日19時17分]
<住之江ボート>◇最終日◇1日
倉谷和信(52=大阪)と、娘で118期からデビューする関野文(せきの・あや、22=大阪)が、7R発売中にトークショーを行った。
関野は高校卒業後、看護学校に2年、バイト生活を1年経験した。将来を考えた際に父親の仕事が思い浮かんだという。倉谷は「どうせ無理やろと思ったから『まあ受けてみろ』というたら、1回で試験を通ってしまった。俺は8回もかかったんですよ」とファンの笑いを誘った。
関野は3日から住之江ラピートCでデビュー戦に臨む。「初戦は、作戦Cで行こうと思います」と、レースプランを立てていた。
最後に親子レーサーとしての目標を聞かれ、倉谷は「(関野が)A級に上がって、タイトルを取れる選手になってほしい。父であってコーチだから、見守っていくしかない」と話すと、関野は「父と一緒にSGへ出られるように頑張ります!」と力強く宣言。ファンの歓声を浴びた。
- ターンマーク坊やTV vol.75 関野 文選手
- 未来のQueen|関野文|女子レーサー|ボートレース
- ボートの時間! #80 「関野文の休日」 2017年10月8日
- ボートの時間! #81 「関野文の休日」後編 2017年10月15日
倉谷 和信選手の師匠は野中 和夫選手
倉谷 和信選手の師匠は、同じ大阪支部所属、27期の元競艇選手・野中 和夫さんです。
名前 (フリガナ) | 野中 和夫 (ノナカ カズオ) |
登録番号 | 2291 |
生年月日 | 1944年1月1日 |
身長 | 159cm |
体重 | 55㎏ |
血液型 | O型 |
支部 | 大阪 |
出身地 | 大阪府 |
登録期 | 27期 |
引退時の級別 | B2級 ※ラストラン時点での級別はA2級 |
デビュー日 | 1969年3月24日 |
最終出走日 | 2005年2月7日 |
引退日 | 2009年12月10日 |
野中 和夫さんは1944年生まれ、大阪支部に所属していたレジェンドレーサーです。
年齢的な問題から『まだ走りたい気持ちはあるが減量が利かない体になってきた』との理由から、2009年12月10日に65歳で引退しています。
引退時のコメントは次のとおり。
自分の人生は、本当に競艇一筋のものでした。
故横山やすし氏から『俺の代わりに競艇選手になってくれ』と言われて競艇選手になったのがきっかけですが、故笹川良一前会長をはじめ、住之江競艇場の関係者の皆様には殊のほか面倒をみていただき、また、全国のお客様から長きにわたり、いつも熱いご支援をいただいたことが、一競艇選手としての誇りであり心の支えであったと思います。
選手として引退はしますが、これからはこれまで私を支えていただいた全国のお客様や関係者の方々に感謝の気持ちを伝えていきながら、選手の立場を離れて別の視点からより多くの人に競艇の様々な魅力を伝えていきたいと考えております。
これまでの暖かいご声援、誠にありがとうございました。
さらに引退後の2010年には、ボートレース発祥の地・大村競艇場の『ボートレース殿堂』にも認定されるほどの輝かしい功績を残し、その爪痕は、ボートレース界の歴史を語る上で欠かせないものです。
ボートレース殿堂・ボートレースマイスターとは?
「ボートレース殿堂」及び「ボートレースマイスター」は、ボートレース界で特に顕著な活躍をしたり、ボートレース界の発展に大きく寄与した「元選手」に対し、その功績を称え顕彰するために、ボートレース大村が平成19年G1名人戦開催を記念して創設したものです。
引用元:ボートレース大村 > ボートレース大村 60周年記念 > ボートレース殿堂 > 歴代競艇マイスター (omurakyotei.jp)
あまりの“強さ”と“卓越したレーステクニック”からついた「モンスター」の愛称と、トレードマークの“ひげ”で親しまれ、2014年に日本モーターボート選手会専務理事に就任した佐野 隆仁さん(2024年7月4日引退)の次に最後の弟子として迎え入れたのが倉谷 和信選手でした。
1969年3月に27期としてデビューを飾ると、1991年には当時5つあったSG競走を全て制覇する「5冠グランドスラム」を達成。
1995年にはグランドチャンピオン決定戦競走を制して「6冠グランドスラム」、さらに翌年に新設されたオーシャンカップ競走も制覇して「7冠グランドスラマー」に。
※1998年に新設されたチャレンジカップのみ制覇できていない。
このようにSG競争でも驚異的な強さを発揮することで、1974年には過去70年の競艇史において、史上2人しか達成できていないSG3連覇※1を初めて達成しています。
※1:笹川賞(ボートレースオールスター)・モーターボート記念競走(ボートレース メモリアル)・全日本選手権競走(ボートレースダービー)の3冠
ほかにも、未だに破られることのない偉業を数々と打ち立てたことでも知られ、SG競争で史上最多の優勝17回や期間最高勝率9.53(当時は現在のようなSGレースで2点増し、およびG1レースの1点増しがなく、SGのみ1点増し)など、多くの金字塔を打ち立てたレジェンドレーサーです。
また、このような輝かしい戦績だけでなく、2005年3月からは“社団法人 日本モーターボート選手会”の会長に就任して、レースには出走しなくなったものの、2009年までの4年間その職を務めあげました。
現役生活最後のレースは、2005年2月7日に戸田競艇場で開催された一般戦「第20回 日本モーターボート選手会会長賞」最終日、第7レースの3着。
40年8か月間の選手生活での出走回数は6,501走で通算2,574勝で生涯勝率は7.50。
通算優出回数は307回・通算優勝回数は132回のうち、SG優勝が歴代最多記録の17回、G1優勝は39回で、生涯獲得賞金は18億5,537万1,637円。
賞金王(年間最多賞金獲得選手)7回と年間最多優勝回数16回は、いずれも歴代最多で現在でも破られていない記録です。
2025年1月13日現在、同期の27期で現役を続けられているボートレーサーはいません。
かわりに、野中 和夫さんよりも前からボートレース界で戦い続け、現在の“”現役最年長記録」を有しているのは20期の高塚 清一選手(2014)で、2024年には長年の功績を認められて「令和6年優秀選手」に選出されて、“特別賞”を受賞しています。
野中 和夫さんの親友は元漫才師の故横山やすしさんで、もともとは中学校の同級生という間柄だったってホント⁉
『俺の代わりに競艇選手になってくれ』という言葉がきっかけで競艇をはじめて、デビュー戦の応援にも駆けつけてくれた恩人だったみたい。
弟子で元競艇選手の佐野 隆仁さんは、故横山やすしさんのボートレースの内弟子だったみたいで、その流れで野中 和夫さんに弟子入りしたらしいよ。
モンスター野中和夫が正式に引退
モンスター野中和夫が正式に引退
2009年12月10日
ついに来るべき日が来た。競艇界を背負ってきた野中和夫が10日、選手登録の消除手続きを終えたんや。昭和44年3月24日、住之江でデビュー以来、40年に渡る波瀾万丈のの選手生活にピリオドを打ったんや。昨夜、野中宅で「お疲れさんでした」と「おおきに」とビールで乾杯をしたけど、不思議と素直に現実を受け止められたわ。
選手会長の要職から降りた4月以降、走らないモンスターと接してきたから、けじめはすでに付けていたからかも知れん。ただ、思い出すのは昭和49年の第1回笹川賞の優勝を含め史上初のビッグ3連覇、そして昭和51年のすさまじいばかりの活躍や。期間勝率9・53、年間優勝16回、獲得賞金は当時のプロスポーツで巨人軍・王貞治を抜く6000万円を越してたんや。
その頃、阪神タイガースを自由契約になった江夏豊を南海ホークスのプレイング監督やった野村克也が獲得して、リリーフの道で蘇らせたんや。我が籍を置いてたサンスポの編集会議では「江夏5%ダウンの1750万円でも、ニッコリサイン」を1面の候補に挙がっていたが、当時の編集局長が「賞金で王の年俸を抜く野中和夫の挑戦をトップにする」と決断したんや。
ちなみに、この年の王は年俸5660万円、ゴルフの青木功が4195万円、尾崎将司が2786万円、大相撲の輪島が1740万円、競馬の福永洋一が4000万円、競輪の藤巻昇が5516万円で、野中は5720万円を稼いでいた。
もちろん初めて1面記事を書くのに、肩が凝るほど緊張しっぱなしや。昼にカメラマンを連れて堺の野中宅に出向き取材、さらに夕刻には下関周年に旅立つ野中を伊丹空港まで追っかけて激写や。他社に悟らせんようにするのが苦しかったわ。
周囲に居た人も不思議そうな顔をしてたで。王貞治より稼ぐ男とは誰も思わんわなぁ。競艇の野中和夫といっても、世間での認知度は低すぎたね。ところがや、翌日のサンスポ1面記事から、スポットは野中に集まったんや。下関で優勝すれば6000万円に達し、負けても年内には王を抜くことが知れ渡ったんや。
昭和51年12月15日付の見出しは「野中6千万秒読み」「“賞金日本一”華麗なる競艇王」「王も尾崎も福永洋も“脱帽”」「“男の夢”かけ挑戦」やった。
結局、下関では優勝できず、最終的に6088万2500円でプロ競技№1に輝いたんや。
以後、昭和55年6月27日に“黒い疑惑”で登録消除されたが身の潔白を証明して、故・笹川良一会長が「法的にシロである以上、本人に復帰の意思あれば受け入れる」と現役復帰の道を開いた。昭和56年9月9日、午前9時から笹川会館で登録更新を受ける22期生43人とともに検査を受け、午後2時に“合格”の知らせを手にした。10月12日に日本モーターボート選手会の定例理事会で入会を満場一致で可決、承認して晴れて現役復帰した。
「これからは何をするにも命がけでやります。そして今までと違う野中をファンの皆様に見せたいと思います」
復帰の際の言葉を、野中和夫は故・笹川会長のためにも感謝の気持ちを忘れずに守った。1年2ヶ月のブランク以上に、ファンへの信頼度を勝ち取るため、さらなる努力にも努めた。フライングを3本抱えて蒲郡・MB記念の優勝戦にコマを進め、彦坂郁雄と死闘を展開して、ファンを水面に釘付けにした。それこそ鬼気迫る攻めで、復帰後初タイトル奪取へ執念を燃やしたものだ。
復帰前は6つのタイトルだったが、以後は17まで増えた。60歳の時は児島(322142132①着)で6コースから一気にまくって“還暦優勝”を飾った。モンスター最後の優勝だったが、ファンは、こんな攻める野中が大好きだった。もちろん、私も最後の最後まで、大ファンやった。
思い出はいくらでもある。だけど、常に胸を張って言えるのは「野中は世界の王を抜いたんやで」なんや。勝率9・53は誰かに抜いてもらいたいが、不滅の記録でもええかな。
モンスター野中和夫の「引退式」は12月19日9時20分からの住之江競艇「賞金王決定戦」12戦士のモーター・ボートの抽選後、約6分間行われ、賞金王シリーズの第8R発売中にアクアライブステーションで盟友・佃信雄さんとトークショー、12R 発売中の水面でラストランでファンに最後の勇姿を披露する。いつも展示の時に艇をローリングさせる姿を、もう一度焼き付けておきたいと思っている。
- ボートレース SG10回目の優勝 これがモンスター野中和夫! 博多ん大将・松田雅文 グランプリ初制覇|ボートレースSG優勝戦レース 1990年1991年のトピックスをプレイバック「ボートレース年鑑」
野中 和夫選手の過去戦績
野中 和夫選手の主な過去戦績は次のとおりです。
※ここからは長年偉大な記録を残してきた野中 和夫さんの功績に敬意を込めて、“野中 和夫選手”と表記させていただきますのでご了承ください。
日付 | レース名 | レース場 | グレード | 戦績・概要 |
1969年3月24日 | (タイトル不明) | 住之江 | 一般 | デビュー |
※初勝利~SG初優出までの記録は、1997年5月1日以前のため詳細を確認できませんでした。 | ||||
1974年5月7日 | 第1回 笹川賞競走(ボートレース オールスター) | 住之江 | SG | SG初優勝 |
1991年3月25日 | 第26回 総理大臣杯争奪 鳳凰賞競走(ボートレースクラシック) | 平和島 | SG | 史上2人目の5冠グランドスラムを達成 |
1995年7月3日 | 第5回 グランドチャンピオン決定戦競走 | 桐生 | SG | 史上初の6冠グランドスラムを達成 |
1996年7月22日 | 第1回 オーシャンカップ競走 | 住之江 | SG | 史上初の7冠グランドスラムを達成 |
2003年2月26日 | 一般戦 | 津 | 一般 | 通算2,500勝達成 |
- | - ※1997年5月1日より以前の記録で、詳細は確認できませんでした。 | - | - | 通算100優勝達成 |
2005年2月7日 | 第20回 日本モーターボート選手会会長賞 | 戸田 | 一般 | ラストレース |
野中 和夫選手は1969年3月24日に大阪支部のホームプール・住之江競艇場の一般戦で27期生としてデビュー。
初勝利からSG初優出までと通算2,500勝の記録については、あまりに前の記録であることや、残してきた記録の多さから情報が埋もれてしまい、調べることができませんでした。
しかし、これだけの戦績を見れば、野中 和夫選手がいかに優れた才能を有し、強い選手だったのかが伝わるはずです。
現役を引退してなお、ボートレースの歴史を紐解くうえで必ずと言っていいほど名前があがるということは、それすなわち競艇史を代表するレジェンドレーサーということ。
“勝負師”と呼ばれることを極端に嫌い、『俺は勝負師やない、勝ち師や。勝負師とは勝ったり負けたりする人のことやから、俺は勝つことしか考えとらん』という名言を残して、自らを“勝ち師”と称しながら、ずっと一心に勝つことだけにこだわり続けた野中 和夫選手だからこそ、このような偉業を残せたのでしょう。
40年8か月間の選手生活での出走回数は6,501走、うち1着を獲得したのは2,574走で、生涯勝率は7.50。
通算優出回数は307回・通算優勝回数は132回のうち、SG優勝が歴代最多記録の17回、G1優勝は39回で、生涯獲得賞金は18億5,537万1,637円。
賞金王(年間最多賞金獲得選手)7回と年間最多優勝回数16回は、いずれも歴代最多で現在でも破られていない記録を残しています。
現役生活最後のレースは、2005年2月7日に戸田競艇場で開催された一般戦「第20回 日本モーターボート選手会会長賞」最終日、第7レースの3着でした。
【野中 和夫選手の主要獲得タイトル】
ボートレースオールスター(笹川賞)は初開催をはじめ優勝6回!モンスター 野中和夫氏(70歳)、語る。
- 地元で初開催。勝負を懸けた
「SG笹川賞、今大会からボートレースオールスターと言うのですね。このSGは第1回の住之江から、全6回優勝しています。笹川賞はファン投票ですから、応援してくれるお客さんの期待に応えたいという気持ちが強かったですね。前年(1973年)の9月頃に突然、開催が決まりました。第1回は地元の住之江でした。
その年は、笹川賞じゃなくて、3月常滑の総理杯(2014年から新通称名・SGボートレースクラシック)で優勝してやろうと準備していました。誕生日の1月1日から減量を始めました。炭水化物は一切食べません。正月に出た赤飯も一口も口にしませんでした。口にしたのは朝鮮人参を煎じたお茶とパイナップルでしたかね。
そうして、身体をしぼって総理杯に臨んだんですが、1 1 2着と行って、3日目に進入のときにエンストして出遅れ。準優勝戦には乗れませんでした。
悔しかったけど、先輩から『ここまで身体をいじめて来たのやから、あと2ヵ月辛抱できるやろ。そうすると笹川賞や。地元で初開催やし、もう少し頑張ってみたらどうや』とアドバイスされて、『それなら勝負を懸けてみようか』と思いました。その前年に、笹川賞の前身である全国地区対抗で優勝戦に乗っているので、笹川賞に懸ける思いは強かったですね」
- 先輩に可愛がられて力をつける
「私は選手になったのが25歳ですからね。笹川賞は選手になって5年目です。早く強くなりたいと、吸収できることなら何でも吸収してやろうと思っていました。先輩の家に押しかけてモーター整備のこと、レースのこと、なんでも聞きました。レース場に行けば行ったで、他人の何倍も動きました。
まず、先輩から名前を覚えてもらわないことには始まりません。荷物のまとめから、切符の手配まで、先輩がやりたいと思っていることを、先手、先手を取ってやりました。
モーターを出すには体重を絞った方が良いので、減量もしました。先輩のなかには、『筋肉を絞ったくらいでは減量にならん。骨までやせろ』と無茶を言う人もいたほどです。
先輩から食事の誘いがあれば、喜んでついて行きました。食事中に頃を見計らって、トイレに行く振りをして勘定を済ませておくのです。すると先輩は『野中、勘定してくれたんか。すまんな』となります。次にレース場で顔を合わすと、『プロペラの叩き方はこうすれば良いのや』と教えてくれました。そうして先輩に可愛がられて、選手になって5年以内にファン投票で笹川賞に選んでもらうことができました」
- 強くなるために人の何倍も努力する
「米粒は口にせず、流動食とサウナで身体を絞りに絞って臨んだ第1回笹川賞では、2 1 5 1 6 2 1で優勝戦に駒を進めることができました。優勝戦はコース取りがもつれ、私は5コースからのダッシュ戦を選択しました。
地元でフライングをしたとき、1日中、スタート練習をしたことがあります。強くなるために、できることは他人の何倍でもやってきたつもりです。それが優勝戦では生きたと思います。一気に捲って優勝できました。自分にとって初のSGタイトルでした。笹川賞では6回優勝できましたが、一番思い出深い優勝です」
- 福岡オールスターは、地元の若手に期待
「今回のオールスター(笹川賞)は、福岡ですね。地元福岡の若い選手に注目でしょう。選んでもらったという意識があるので、気持ちの入り方が違います。
もちろん、それだけでは勝てませんよ。勝つために何をすれば良いか、常に先を考えて、準備をしておかないとダメです。勝つためのシナリオを描いておくことです」
倉谷 和信選手のデビュー戦
倉谷 和信選手の初勝利
倉谷 和信選手の初優勝
倉谷 和信選手の獲得賞金
A1級・A2級制が導入された当初から52期連続でA1級を維持したほどの実力を有する倉谷 和信選手。
なお、現役最後の優勝は、2020年1月に常滑競艇場で開催された一般戦「第33回 半田大賞」。
準優勝戦までをトップの成績で勝ち進み、イン逃げを決めて優勝を飾っており、その後も一般戦を中心に活躍を続けていました。
勝率については、2024年後期には自身の持つ最低勝率4.36を記録し、成績も振るわない状況が続いていたことが読み取れます。
そのため、もちろん獲得賞金も全盛期より減少していることが安易に予想できるはずです。
年度 | 級別 | 賞金ランキング | 獲得賞金 |
---|---|---|---|
2024年 | A2→B1 | 1,439位 | 7,392,000円 |
2023年 | B1 | 1,281位 | 10,553,000円 |
2022年 | A2 | 1,260位 | 10,451,000円 |
2021年 | A1→A2 | 1,142位 | 10,757,000円 |
2020年 | A1 | 536位 | 18,822,000円 |
2019年 | A1 | 501位 | 19,062,000円 |
2018年 | A1 | 322位 | 22,703,000円 |
2017年 | A1 | 284位 | 22,919,500円 |
2016年 | A1 | 361位 | 19,667,000円 |
2015年 | A1 | 110位 | 28,947,000円 |
B1級ボートレーサーの平均年収は約1,100万円といわれています。
倉谷 和信選手は2021年後期から2024年前期までA2級の期間も長いものの、2021年以降の賞金額の減少幅が大きいため、今回の比較対象はB1級レーサーの平均年収1,100万円とします。
直近4年間のデータから算出した平均年収は、約978万円程度。
2023年と2024年後期がB1級だったことを考慮すれば、B1級ボートレーサーの平均金額1,100万円より少し少ない金額くらいです。
直近3年間の平均年収をひと月に換算すると月収が約82万円ですから、かなりの高収入です。
その理由は、2021年以降の獲得賞金額が700~1,000万円だったことと、優勝歴がないことです。
ただ、2021年は一般戦で4回の優出を果たしており、直近4年間の中では最も多い優出回数となったことで、最近では最も高い獲得賞金額を記録しました。
さらに直近10年間の平均年収を計算したところ、約1,713万円となりました。
ひと月に換算すると月収143万円越えですから、もはやトップレーサーって本当に規格外…想像もつかない世界です。
ちなみに、一般的な60代の社会人男性の平均年収は約680~701万円とされていますので、約2.5倍の金額に相当します。
近年は獲得賞金額が700~1,000万円前後で推移していたようですが、全盛期の優勝歴・優出歴のあった時期の獲得賞金額はもっと高額だったことは容易に想像できるでしょう。
ボートレーサー全体の平均年収は1,700万円といわれています。
同期(60期)の注目選手
倉谷 和信選手の同期である「花の60期」には、にはどのような選手がいるのでしょうか。
主だった選手を以下にまとめました。
SGで2回の優勝歴を誇り、その巧みな操縦テクニックから「波乗り賢太」の異名を持つ烏野 賢太選手や、2024年2月にデビュー38年目にして待望のG1初勝利を飾った渡辺 豊選手、かつての名選手で、艇界屈指のペラ巧者である元競艇選手・谷川 宏之の背中を見て育った谷川 里江選手など、SGやG1戦線で活躍する選手が数多くいることから、かなり豪華な顔ぶれだと言えます。
登録番号 | 名前 | 支部 | 級別 |
3303 | 渡辺 豊 | 東京 | A2 |
3300 | 川崎 智幸 | 岡山 | A2 |
3304 | 烏野 賢太 | 徳島 | B1 |
3297 | 藤丸 光一 | 福岡 | B1 |
3302 | 谷川 里江 | 愛知 | B1 |
3289 | 高橋 淳美 | 大阪 | B2 |
- 渡辺 豊選手(3303)/1967年9月17日生まれ/東京/A2
- 川崎 智幸選手(3300)/1967年4月19日生まれ/岡山/A2
- 烏野 賢太選手(3304)/1967年12月20日生まれ/徳島/B1
- 藤丸 光一選手(3297)/1967年2月17日生まれ/福岡/B1
- 谷川 里江選手(3302)/1967年7月9日生まれ/愛知/B1
- 高橋 淳美選手(3289)/1963年5月25日生まれ/大阪/B2
元競艇選手・濱村 芳宏さんの引退を機に作成されたYouTube動画
2023年2月に濱村 芳宏さんが引退を決めた際、同期の選手が集まってYouTube動画が配信されました。
倉谷 和信が引退を決断して、現役なのは川崎智幸選手と烏野賢太選手のみ。
往年のスター選手が競艇界を去るさまは何とも寂しいものですね。
- 同期の肴 60期 | 倉谷和信・濱村芳宏・川崎智幸・烏野賢太(2017年JLC制作)【濱村芳宏 引退特別配信】
60期の“2番手出世”は烏野 賢太選手
60期の出世頭といえば、元選手会会長を務めた上瀧 和則選手ですが、 残念ながら2024年8月に引退をしています。
そのため、今回ご紹介するのは60期で現役選手として活躍し、優秀な成績を残した烏野 賢太選手です。
『ボート界きっての技巧派』と呼ばれ、荒れ水面に強い烏野 賢太選手。
烏野 賢太選手が競艇選手を目指した理由は、“バイクの遠征資金を稼いで、世界で活躍するロードレーサーになるため”だったそうです。
しかし、実際にボートレーサーとしてデビューしたことで『バイクのレースよりもボートレースの方が面白いことに気づいて競艇に専念するようになった』と後に語っています。
現在も一般戦を中心に活躍を続け、38年を超える選手生活を数えるベテランボ―トレーサーです。
名前 (フリガナ) | 烏野 賢太 (ウノ ケンタ) |
登録番号 | 3304 |
生年月日 | 1967年12月20日 |
身長 | 164cm |
体重 | 52㎏ |
血液型 | O型 |
支部 | 徳島 |
出身地 | 徳島県 |
登録期 | 60期 |
級別 | B1級 |
キャッチフレーズは、その巧みな操縦テクニックから「波乗り賢太」と「GRU」。
ちなみに愛称の「GRU」は「Great Racer Uno」の略とされており、これはテレビドラマ「GTO」主演の反町隆史の「グレートだぜ!」という決めゼリフのモノマネをSGやG1の開会式で披露したことがきっかけで定着そうです。
また、現在の競艇では必須のテクニック「モンキーターン」ですが、烏野 賢太選手は試行錯誤の末に独自のモンキーターンを編み出したことから、その旋回技術は「ハイテクモンキー」や「賢太スペシャル」という名で呼ばれています。
2015年まではSG戦線でも活躍しており、2001年の「第36回 総理大臣杯競走(尼崎)」と2003年の「第6回 競艇王チャレンジカップ競走(びわこ)」の2つのタイトルを獲得。
G1では14回、SGでは2回の優勝を飾っており、記念競走において数多く優勝するなど、四国を代表する競艇選手の一人として数えられています。
烏野 賢太選手の過去戦績
烏野 賢太選手の主な過去戦績は次のとおりです。
日付 | レース名 | レース場 | グレード | 戦績・概要 |
1987年7月18日 | 一般戦競争(タイトル不明) | 鳴門 | 一般 | デビュー |
1989年5月 | 一般戦競争(タイトル不明) | 宮島 | 一般 | 初優勝 |
1994年11月 | 開設42周年記念 競艇キングカップ ※翌年も連覇を果たしている | 児島 | G1 | G1初優勝 |
2001年3月20日 | 第36回 総理大臣杯競走(現:ボートレースクラシック) | 尼崎 | SG | SG初優勝 |
2019年3月31日 | eプリント杯 | 常滑 | 一般 | 通算90優勝を達成 |
2022年9月23日 | 丸亀-1グランプリ カルビーカップ | 丸亀 | 一般 | 史上34人目の通算2,500勝達成 |
烏野 賢太選手は1987年7月に地元・鳴門競艇場の水面でデビューし、初出走から1年10か月後に宮島競艇場の一般戦で初優勝の水神祭を飾ったうえに、1994年11月に児島競艇場で開催された「開設42周年記念 競艇キングカップ」でG1初優勝。
しかも、翌年の児島・周年記念では連覇を果たしています。
2001年3月には「総理大臣杯競走(現:ボートレースクラシック)」でSG初制覇を達成し、2年後の2003年にはSG2つ目のタイトルとなる「競艇王チャレンジカップ競走」のタイトルを獲得。
そして、2019年には選手生活31年10か月にして通算90優勝を達成して、2022年9月23日には史上34人目目となる通算2,500勝を達成しています。
the INTERVIEW
ボートレースの世界にハマって、だんだん勝てなくなって、それでも走り続けたい理由がある。
うの けんた
1967年(昭和42年)12月20日生まれ。徳島支部・60期。
1987年7月、鳴門でデビュー。94年11月、児島・周年記念でGI初優勝。2001年3月、尼崎・クラシックでSG初優勝。
「波乗り賢太」と言われるように荒れ水面に強い。「花の60期生」の1人で、同期は倉谷和信、濱村芳宏らSG覇者に、選手会長の上瀧和則などトップレーサーが多い。
マスターズは新鋭戦のような感覚
マスターズで走るのは今回が2回目です。マスターズは新鋭戦を走っていた頃の感覚に近いものがありましたね。
お祭り要素の濃いマスターズは普段以上のレースをする人もいて、誰がどこに来るのか予測できません。艇が寄ってくるタイミングや、レバーを止めるタイミングが違い、リズムが合いませんでした。それで優出できなかったのだと思います。今までに何度も味わっているので、想定外には慣れていますけどね。
来年からは年齢制限が45歳以上になるので、メンバーも濃くなるでしょう。来年来るのはSGを獲った人ではなくて、SGで走っている人です。レース形態も変わると思いますよ。
バイクの遠征資金稼ぎにボート選手を目指す
学生の頃は、漫画『バリバリ伝説』や映画『汚れた英雄』の影響でバイクに憧れていました。16歳で免許を取って、平日は学校とバイト、日曜日になると鳴門からずっと南にある南阿波サンラインの有料道路(現在は無料)へ走りに行っていました。南阿波サンラインでは、曲がれそうにもないカーブを膝をこすりながら曲がったりして、かなり無茶をやっていましたよ。崖から落っこちそうになって大ケガもしましたしね。
そんなこともあって、「峠はヤバい」とサーキットで走るようになったんです。徳島県のチャンピオンにもなりました。
ただ、オートバイはお金が掛かるんですよ。だからボートの選手になって遠征資金を稼いで、世界で活躍するロードレーサーになろうと思っていました。
デビュー前の練習で首と顎を折る大ケガ
デビューは1987年7月、みんなより3ヵ月近く遅れてデビューしました。遅れたのは、デビュー前の練習で大ケガをしたからです。顎と首を骨折しました。首の第3頸椎と第4頸椎がズレて、第4頸椎の一部は粉砕骨折です。左腕も完全に麻痺していました。
ところが事故の日の記憶がほとんどないんですよ。バイクの事故ではスローモーションのように事故の記憶がありました。でも、ボートの事故の記憶はないんです。
事故の後、すぐに首の骨のズレを戻すために「牽引」が行われました。頭蓋骨を引っ張って首の骨のズレを戻すんです。普通は顎から上へ引っ張るのですが、僕の場合は顎の骨も折れています。顎に負荷を掛けられないので、頭蓋骨に2箇所穴を開けて、そこから引っ張るという方法を取ったそうです。覚えていなくて良かったです。
気がついたのは夕方、病院のベッドの上です。そのときに「自分はケガをしたのだ」とわかりました。左手が凄く痛むんですよ。「痛いというのは神経が通っている証拠。いつまでかかるかわからないけど治る可能性がある」と言われて我慢しましたが、人が通ったときに起きる微かな風でも飛び上がるほど、強烈な痛みでした。
もっと凄かったのは、顎の手術をしたときです。全身麻酔は生命に関わるということで、局部麻酔で手術しました。歯の1本1本にピアノ線のようなものを八の字に結び、型を取るためにステンレスに結び付けていくのです。歯茎にブスブスと刺していく痛みで血圧が200まで上がり、何度も中断しながらの手術でした。
事故の記憶がないのが幸いでした。麻痺したのが左手だったのも良かった。ボートに恐怖心を持つこともなく、3ヵ月後に無事デビューできました。デビュー戦の3勝は「あんな痛い目に遭ったのだから、絶対に元を取ってやる!」って気持ちです。それくらい痛かったんです。
上瀧と一緒に見た飯田加一の凄いターン
本栖の訓練生時代は「やっていける」と思っていましたが、実際に走ってみると次元が違いました。「足が痛い」とか「目が霞む」と言っているオジさんたちに全く歯が立たないんです。バイクやサーフィンなど、それまで勝てないと思うことがなかったから、驚きましたね。すごい世界があるものだと思いました。
モンキーターンを始めたのは、植木通彦君がクラシック(1993年・戸田)で優勝する1年くらい前です。どこかの記念を走ったときに、飯田加一さんが凄いタイムで勝つのを見ました。ちょうどデカペラが出始めた頃かな。同期の上瀧(和則)と一緒でした。
「あんなに凄いタイムが出るのはプロペラなのか、ターンなのか・・・やってみるか!」って、早速試運転で試しました。好奇心ですよ。確かにターンをした後に出ていくスピードが違っていたんです。
「ターン出口が良いぞ」ってことで、それからは試運転や展示でやるようになりました。本番では勝負所でしかやりませんでしたね。新鋭戦でもモンキーをやる選手はいたんですが、競技委員長から呼ばれて「ふざけたターンをするな」と言われることが多かったので。完成度が植木君と違っていたのでしょう。
足の差を見せつけられ「自分が間違っていた・・・」
中道善博と植木通彦の後ろでチャンスを待っていた
1995年の桐生・グラチャンで、初めてSGの優勝戦に乗りました。その頃が僕の”旬”だったのでしょう。その年のグランプリ優勝戦が、有名な中道(善博)さんと植木君の死闘です。3着を走りながら「2人してコケてしまえ」と思っていましたよ(笑)。その頃は「SGで6回優出すれば、必ず優勝できます」と言っていましたし、本当にSGで優勝を量産できると思っていました。ところがそうは行かず、だんだん勝てなくなりました。上を追い抜いていくときはわかっても、下から追い越されていることに気づかなかったんですね。SG優勝は今のところ2回です。
プロペラ調整でも置いて行かれました。プロペラ調整というのは、これという答えがありません。皆で試行錯誤して情報を共有するのが正解なんです。でも、当時の僕は「プロペラは選手にとって命のようなもの。気安く他人から教えてもらってはいけない」と思っていましたから、他の人に聞かなかった。自分の力で勝ちたかったし、実際に勝てると思っていました。勝てなくても、たまたまだろうと思っていました。
勘違いに気づいたのは、1997年の常滑・オールスター(笹川賞)の優勝戦でした。僕がスタートを決めて1マークで差したんですが、先捲りした植木君が前に出て行った。植木君に捕まる隊形ではありませんでした。エンジンが違いすぎていました。
「自分がやってきたことは間違いだった」と思い知らされました。「散々やってきて、これかい」って思いましたね。
それからのSGでは毎回、エンジン差を感じながら走りました。優勝戦に乗ってもずっとエンジンで負ける状態が続きました。それでも、もがき続けるしかありませんでした。
「優勝はいただいた!」と思ったこの後、6号艇の植木が前に出た
SGで優勝するコツは「次で良い」という気持ち
SG初優勝は尼崎・クラシック(2001年)です。10回目の優出で初優勝しました。
そのときもエンジンは出ていなかったので、プレッシャーはありませんでした。「西島(義則)さんが前付けに来るし、(山崎)智也に捲られたらおしまい。勝てる足でもないし、優勝は次でいいや」と思っていましたね。すると本番では思ったほど進入が深くならず、インから先マイして優勝できました。
びわこのチャレンジカップ(2003年)で優勝したときは、エンジンが出ていて「勝てそうだな」とは思ったけど、緊張感はありませんでした。クラシックで勝っていなかったら気持ちが入っていたでしょうが、1つ獲っているので余裕がありました。
あの優勝戦の進入は、心地良いものでしたね。いつもならいろいろ考えるんですが、あのときは特に何も考えていなかった。すると、家族や友達、応援してくれるみんなの顔が浮かんできたんです。その年は体調が良くなくて、走るのが苦しくなるときもありました。家族やいろいろな人に助けられて、チャレンジカップもギリギリでの出場でした。「優勝したら、みんな喜ぶんだろうなあ。今回はみんなのために優勝したいな」って思ったら、肩の力が抜けました。
タイトルを1つ獲るということは、そういうことかもしれません。勝つときは勝つし、ベストなレースをしても負けるときもあります。「何が何でも獲るんだ」ではなく、「勝つのは次で良い」と思えれば肩の力も抜けます。こればかりは場数を踏むしかありません。
「みんなのために優勝したい」無欲で臨んだびわこ・チャレンジカップで2回目のSG優勝
「乗りやすい」とはサスペンションの利き具合
バイクやカートをやっていると、サスペンションが重要だということがわかります。ボートでは、プロペラがサスペンションの役目をするんです。選手が「乗りやすさ」と大雑把に表現しているのは、サスペンションのことです。
サスペンションが上手く機能していれば、水面からの衝撃を吸収してくれるのでグィーンと回れます。利いていないと、ボートが暴れてターンになりません。プロペラ調整の巧い選手は僕がプロペラを合わせるのに3日掛かるところを、1回乗っただけで合わせてきます。感性が違うのでしょうね。
プロペラは形もあるし、調整方法もあるし、乗り方もあります。そうした総合的な感性がボートには必要です。でもノウハウがないから、何が正解なのか誰にもわからないんですよ。似た乗り物がないから、適性もわからないしね。確かにボートの天才はいるけど、その天才も努力するのがボートなんです。本当、正解のない世界ですよ。
会心のレースの快感にまた走りたくなる
僕にとって、マスターズは目標ではありません。まだ僕には極めてみたいというか、やり残しがたくさんあります。強い人もたくさんいるので、その人たちに少しでも追いつきたい、追い越したいという気持ちもあります。
1着を獲るにしても、ただ勝つのではなく、勝った後の気持ちも大切です。良いレースは年に何回もないけど、それまでのキツかったことも忘れるくらい気持ちが良いですよ。「してやったり」と思うのは、6コース差しで優勝したときでしょう。
一度、そんな気持ちを味わってしまうと止められません。また走りたくなるんですよ。手術の痛みの元もまだ取っていないしね。だから走り続けられるし、この位置にいられるんだと思います。
今度のマスターズでも、良いエンジンさえ引けば優勝できるチャンスはあります。エンジンが出ていれば「出ています」とコメントしますから、そのときは勝ちに行きますよ。
小学生の頃から全国に支部をもつ有名連『葵連』に所属し、レースがなければ夏の阿波踊りにも参加する。「継承する人が必要だし、価値のあることだと思う。選手を辞めても踊りは続けるでしょうね」
- BOATCAST NEWS│史上34人目の大記録! 烏野賢太 通算2500勝達成!! ボートレースニュース 2022年9月23日│
倉谷 和信選手のラストレース
倉谷 和信選手のラストレースは、2024年12月7日~12日に住之江競艇場で開催された「G3・マスターズリーグ 第9戦」最終日の第2レースです。
このシリーズは、ここまで8走して1着を1本と2着を2本あげて舟券に貢献。
大外6コースからの進入で、“ラストランを有終の美で飾りたい”という意気込みを胸に臨んだレース。
もちろんこのレースではかなり厳しい進入コースの影響もあって、単勝オッズは46.6倍で6番人気。
さらに3連単のオッズでは、人気トップ3の買い目がいずれも“1号艇の山崎 義明選手が1着”と予想していることから、このレースでの連絡みは難しいと考えられていたことがわかります。
勝利へのプレッシャーがかかる条件下で、出走選手4名が自分よりも勝率が高いという厳しい状況。
コンマ24のスロースタート出遅れて6着となるも、最終戦でもしっかりと最後まで走り切るベテランの“矜恃”を見せてくれました。
このレースの3連単1–5–3は18番人気の5,810円(58.1倍)でした。
2024年の競艇界トップを決する「グランプリ」開幕直前の住之江競艇場で、デビューとG1初優勝を飾った記念すべき水面でカポックを脱いだのです。
デビューから37年目のラストレースでも、これまでの選手生活と同様にファンの期待に応えて、シリーズを“無事故”で走り切れたのは、日々の努力や練習を大切にコツコツと操縦技術を磨き続けた賜物でしょう。
出走表
単勝オッズ
枠番 | 級別 | 選手名 | 単勝オッズ |
---|---|---|---|
1 | A2 | 山崎 義明 | 1.0倍 |
2 | B1 | 武田 信一 | 13.3倍 |
3 | A1 | 荒井 輝年 | 5.8倍 |
4 | B1 | 都築 正治 | 12.4倍 |
5 | B1 | 今坂 晃広 | 31.1倍 |
6 | B1 | 倉谷 和信 | 46.6倍 |
3連単オッズ
買い目(人気順) | オッズ(倍) |
---|---|
1–3–4(1番人気) | 6.4 |
1–3–2(2番人気) | 7.4 |
1–2–3(3番人気) | 8.9 |
1–4–3(4番人気) | 11.2 |
1–2–4(5番人気) | 15.0 |
レース結果
倉谷 和信選手の引退で「公式サイト内のプロフィールページ」が削除される
倉谷 和信選手の引退が報じられた2025年1月15日。
情報の信憑性を確認するために、下記の2つの情報源で「倉谷 和信選手のプロフィールページ」の存在有無を調査しました。
- BOAT RACE公式サイト内のプロフィールページ
- ボートレース住之江Official Siteの大阪支部選手プロフィールページ
2025年1月15日時点で、それぞれのサイトに“倉谷 和信選手のプロフィールページ”が存在していたのか…その調査結果をご紹介します。
ボートレース公式サイト内のプロフィールページ
2025年1月15日までに「BOAT RACE公式サイト」内のプロフィールページが削除されたことが確認できました。
現在、倉谷 和信選手のプロフィールページにアクセスすると『※ データが存在しないのでページを表示できません。』と表示されて、以前のように情報を閲覧できない状態となっています。
また、同サイト内の検索機能を利用して“選手名”や“登録番号”で検索しても、すでに情報を見ることはできなくなっていました。
2025年1月15日時点で削除されていたBOAT RACE公式サイトの選手紹介ページ
ボートレース住之江Official Siteの大阪支部選手プロフィールページ
倉谷 和信選手の情報は「BOAT RACE公式サイト」内から削除されましたが、2025年1月15日現在も「ボートレース住之江Official Web Site」では確認することが可能でした。
しかし、引退届が受理されて選手登録が削除された以上、大阪支部所属選手一覧からも近日中に削除されるでしょう。
2025年1月15日現在、確認できたボートレース住之江公式サイトの選手紹介ページ
WEBニュースで引退が報じられる
2025年1月15日に「Yahoo!JAPANニュース」で倉谷 和信選手の引退が報じられました。
報道はいたってシンプルなものでしたが、引退が現実であることを実感する内容となっています。
【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」
【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」
1/15(水) 4:30配信
ホームプールの住之江でG1を2V(1998年2月16の近畿地区選手権と2000年3月9日の太閤賞=43周年記念)、オール大阪は第1回ラピートカップなど4Vと“ガッツ倉谷”の愛称で人気を博した倉谷和信(61=大阪)の引退届が14日、受理されたことが分かった。
A1&A2制が導入された当初から52期連続でキープしていたA1レーサーから21年後期にA2降級。その当時から「(A1条件の一つ)90走がきつくなってきた」と体力面に不安があったという。さらに最近は「闘争心も薄れてきた」と持ち前のガッツあふれる走りも影を潜めていた。
本紙の取材に倉谷は「先延ばしするのもどうかな…と思って年が明けてから(引退を)決めた。娘(関野文)もA1になって2期になるしね。もう十分。うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった。応援してくれた人たちには感謝の気持ちでいっぱい」とスッキリした様子で話した。
SGではピット離れで3号艇からインを取ってバックで先行しながら、1周2マーク転覆でV逸した96年5月27日の笹川賞(現ボートレースオールスター、児島)など9回優出したが「いつでも獲れると思ってたけど…」と戴冠の夢はかなわなかった。
ラストランは昨年12月12日の地元・住之江G3「マスターズリーグ第9戦」最終日2Rで、6号艇から6コースで6着だった。
◇倉谷 和信(くらたに・かずのぶ)1963年(昭38)10月7日生まれ、大阪府出身の61歳。大阪支部の60期生として87年5月14日、住之江でデビュー。通算成績は7861戦2205勝293優出57V(G1は98年の近畿地区選手権、2000年の住之江43周年記念と00年2月29日の三国46周年記念に07年2月17日のびわこ近畿地区選手権の4V。G2は01年10月18日のびわこ秩父宮妃記念杯を制覇)。同期に川崎智幸、谷川里江、烏野賢太ら。1メートル63。血液型O。引用元:【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」(スポニチアネックス) – Yahoo!ニュース
記事に寄せられたコメント
報道はいたってシンプルなものでしたが、60期のベテランレーサーが引退を決めたとあって、『長年の活躍を労う声』や『1998年のオーシャンカップ優勝戦で転覆したことを思い出したという声』が聞かれました。
「SGで先頭で走ってて転覆したのは倉谷選手以外見たことない」というコメントから、いろいろな意味で印象に残る選手だったことが伝わりました。
また、「一生懸命のレースで勇気もらってました」というメッセージを倉谷 和信選手ご本人が目にすれば、選手冥利に尽きるこの上ない喜びに感じることでしょう。
SG優勝戦での転覆が印象に残るが 引退は残念だし時の流れを感じるが 寂しいです! 往年の名選手達に揉まれながらも個性的で 味のある名選手でした! お疲れ様です! これからも競艇界に貢献してほしいです!
倉谷引退か!ショックだな。倉谷とか江口とかこういう渋いオッサン系のレーサー好きだなぁ。今みたいにイケメンでスマートなレースする選手よりイン強奪からの逃げ!みたいな昭和?平成?のレーサーもすくなくなってきた。寂しい。倉谷SG取れなかったのは残念だ。自分は住之江の当時は賞金王シリーズ優勝戦で池田の捲りにマーク差しで届いたたんだけど2マークで池田に差し返されたレースが印象に残っている。お疲れ様でした!
当時はモンスター 野中和夫さんの唯一の弟子でした。 モンキーターンがまだまだ定着していないときで、児島オールスター優勝戦では、2マークをモンキーでターンしようとして転覆、野中さんに 「 あんなところでモンキーするやつがおるか!! 」 って叱られていた、とうろおぼえしてます。長い間ご苦労さまでした。
あのSGでの転覆は今でも覚えてますよ。 幻のSG優勝となりましたが…。野中さんや古川さん、立山さんとか走ってましたよね。 なんか懐かしくなりました。 これからは第二の人生をゆっくりお過ごしください!
初めてSGを取れそうな1998年のオーシャンカップにつきますね!先頭で走ってて何でも無いところで転覆。あの転覆がなければもっとSGを取れたんじゃないかな?SGで先頭で走ってて転覆したのは倉谷選手以外見たことない。ちょっと浮かれて引きなみにはまったのかな?そのおかげで今の松井繁選手がいますね。あの棚ぼた優勝で松井繁選手が一皮剥けました。
倉谷選手長い間お疲れ様でしたm(_ _)m 一生懸命のレースで勇気もらってました。
倉谷 和信選手の引退理由は?
現在まで、倉谷 和信選手の引退理由は明言されていません。
しかし、引退が報じられる前の2024年12月20日。
当時「BOAT RACE公式サイト」内の選手紹介ページに掲載されていた斡旋が全て削除されたことが判明しています。
ここからは、斡旋が全て削除された倉谷 和信選手の引退理由について考察していきたいと思います。
ますはじめに、成績不振による引退勧告の基準について見ていきましょう。
【競艇】倉谷和信選手 斡旋をすべて削除
【競艇】倉谷和信選手 斡旋をすべて削除
2024.12.20 17:58
60期の倉谷和信選手に入っていた斡旋がすべて削除されました。この日までに削除されたレースの出場予定は、2024年12月26日から31日まで滋賀県にあるびわこ競艇場で開催される「滋賀県知事杯争奪 2024年末ファイナル」、2025年1月8日から11日まで愛知県にある常滑競艇場で開催される「第32回 4Kソリューションカップ」の2つのシリーズ。
これで現在、倉谷和信選手に入っている斡旋は1つもなくなりました。倉谷和信選手は、12月12日まで大阪の住之江競艇場で開催された「G3マスターズリーグ第9戦」に出場。
その後に来年1月の斡旋を2つ削除しており、残っている斡旋が今回削除された2つのシリーズとなっていました。
成績不振による引退勧告の基準
選手生命に関わるとされる“引退勧告”は「日本モーターボート協会が競艇選手に引退を勧告すること」と定義されています。
あくまで“勧告”であり、引退を強制するものではありませんが、定められている条件が競艇選手には選手生命を続けていくうえで致命的なものであるため、勧告を受けて引退をするケースが多いのが実情です。
毎年5月と11月に新人がデビューすることに伴い、成績が振るわない選手にとっては4月と10月は厳しい勝負時とされます。
なぜなら、成績下位の選手が退会勧告を受けて引退をするため、選手登録3年経過後の4期通算勝率が3.80未満のレーサーが候補になるからです。
引退勧告の基準は次のとおりとなっています。
判断項目 | 基準 |
---|---|
4期通算勝率 | 3.8未満 |
4期通算事故率 | 0.7以上 |
4期通算出走数 | 60回未満 ※自己都合により60回を下回る場合 |
ただし、以下の条件に該当する選手については対象外、もしくは特例措置を講じられます。
- 選手登録3年以内の選手は対象外
- 1期の出走回数が50走未満の場合、次の期と合計した2期分でカウント
- 産休は出産のあった期と前後いずれかの期の合計2期を除外
ちなみに、4期通算といっても1期(半年)が49走以内ならばカウントせず、50走以上になった次の期と合わせて計算するという特例もあります。
そのため、勝率や事故点が厳しい選手は出走回数を調整して「49走止め」を行うこともあり、全く勝てなくてもデビューから7年間は選手を続けることが可能となっています。
※“登録から3年の猶予”と“50走未満を維持して4年”の合計が7年であり、産休などを挟む場合は更に延長されます。
競艇は1年を前期と後期にわけた2期制を採用しており、実施期間を前期は1月1日~6月30日、後期を7月1日~12月31日までとしています。
そのため、4期通算=2年通算となり、2年間の勝率・事故率・出走数を考慮して判断されることとなります。
※審査期間の前期:5月1日~10月31日と後期:11月1日~翌年4月30日までとは異なるため注意が必要。
33年ルールとは?
上記のほかにも、引退勧告には選手数が1,600人を超えた場合にのみ適用される33年ルールがあることをご存じでしょうか?
ボートレーサーは基本的に1,600人が上限とされています。
このルールを端的に表現すると「デビューから33年以上のベテランを対象として、4期通算勝率が4.80を下回っている選手から順に、選手数が1,600人になるまで足切りをするというルール」です。
正確には選手登録後33年経過、かつ4期通算の勝率が4.80未満のレーサーに対して、退会勧告がなされます。
ただし、近年このルールは凍結されていました。
まず、勝率3.80未満の選手が引退して選手数が1,600人以内になれば、それ以上は選手数を減らす必要がないからです。
ところが、2023年前期から選手数の増加により、複数のベテラン選手が艇界から去る必要がでてきました。
そのため、33年ルールで引退するベテランレーサーは毎期ごと一定人数存在する状況に。
選手登録33年となれば、50~60代のレーサーがほとんど。
勝率4.80はオール4着では届かないため、それ以上の戦績が必要となります。
「登録から33年以内の選手の勝率ボーダーは3.80で、それ以上のベテラン選手は4.80というのは厳しい」という声も多く聞かれており、ルールの改変を求める声がある一方で「選手数が増えれば1人あたりの出走回数が減って大部分のレーサーは獲得賞金が減る」という背景があり、33年ルールの撤廃は難しいでしょう。
【結論】考えられる引退の理由は?
前述の基準と倉谷 和信選手の勝率・事故率・出走回数を見比べると、引退勧告を受けた可能性は極めて低いと考えられます。
その理由は以下のとおりです。
- 4期通算勝率:勝率は年々低下しているものの、基準を下回る期はなく、4期通算で勝率3.80(4.80)以上
- 4期通算事故率:事故率0.7未満(2023年4月11日のフライング以降、スタート事故はなし)
- 4期通算出走回数:出走数は4期通算60回以上で、2024年後期まで60回未満の期はない
成績不振による引退勧告の基準のいずれにも該当しないため、引退勧告を受けるような立場ではなかったと推測できます。
そのため、考えられる引退理由として、冒頭でご紹介したとおり『体力面での衰え・闘争心の薄れに不安を感じていたところに、低下する成績という決定打が加わって自ら退く決断をした』ということでしょう。
“ガッツ倉谷”と称されたほどの闘争心を持っていたからこそ、闘争心の薄れは致命的だったと言わざるを得ません。
そのような決断に至った経緯として、考えられるデータをご紹介します。
年 | 期 | 級別 | 出走数 | 勝率 |
---|---|---|---|---|
2020年 | 前期 | A1 | 93走 | 6.46 |
後期 | A1 | 97走 | 6.68 | |
2021年 | 前期 | A1 | 91走 | 6.46 |
後期 | A2 | 72走 | 5.57 | |
2022年 | 前期 | A2 | 70走 | 6.10 |
後期 | A2 | 76走 | 5.55 | |
2023年 | 前期 | B1 | 72走 | 4.90 |
後期 | B1 | 70走 | 4.50 | |
2024年 | 前期 | A2 | 74走 | 5.51 |
後期 | B1 | 59走 | 4.36 | |
2025年 | 前期 | B1 | 53走 | 4.43 |
2021年以降の直近5年だけで見ても、2020年に平均95走ほどあった出走数は年々増加して、2021年後期以降には平均70走ほどまでに減少しました。
同様に勝率も2022年前期の6.10を目途に徐々に低下の一途をたどり、遂に2025年前期には選手人生の最低値4.43まで下がっていたことが読み取れます。
しかし、2024年前期には一時的に勝率は上がったものの、それ以降は右肩下がりで、比例するように出走数もさらに減少。
この結果から鑑みるに、現段階で考えられる引退理由は『年齢と自身の衰えを自覚して、自ら退く決断をした』ということです。
もう一度いいますが、“ガッツ倉谷”と称されたほどの闘争心を燃やして現役時代を走り抜けた倉谷 和信選手にとって、気力の衰えは致命的だったと言わざるを得ません。
これは長年、一途に走り続けてきた一流選手だからこそのプライド故の最も納得がいく理由でしょう。
そのほかにも、引退記事の中に引退理由のヒントが隠されていましたのでご紹介します。
先延ばしするのもどうかな…と思って年が明けてから(引退を)決めた。
娘(関野文)もA1になって2期になるしね。もう十分。
引退を決断できた裏には“愛娘の関野 文選手の成長や活躍に安心した”ことが大きかったのでしょう。
当然ですが、ボートレーサーいえども人の親…心優しい父親の一面を垣間見た気がします。
倉谷 和信選手の電撃引退に対するSNSの反応は?
倉谷 和信選手の電撃引退に対して、SNSにはそのような声が投稿されているのでしょうか?
「引退を惜しむ声」「今までの活躍を労って賞賛する声」そして「娘の関野 文選手に期待する声」が見られました。
具体的な内容としては『イン屋の強豪選手だったのを思い出す』『自分がボートやりだした時にバリバリやった選手がどんどん引退する』『成績下がる一方だったからそろそろかなあと思ってた』という昔を思い出しながらも引退を覚悟していたような投稿。
そのほかにも『倉谷好きやったよ』『本当に寂しいです』『後は娘に頑張ってもらいましょう』『あとは娘に夢を託す形ですね』という、寂しい気持ちを表しつつも未来に希望を抱く様子が伝わる投稿が印象的で、往年のファンからの愛を感じました。
それでは、投稿内容の一部を抜粋してご紹介しますので、気になった方はご覧ください。
倉谷 和信選手の電撃引退に対するSNSの反応
倉谷先輩!
— 人間万事塞翁が馬 (@Shin07233556) January 16, 2025
長い間の競技人生
本当にお疲れ様でした🙇
もうレース場で拝見できることが無くなるのは本当に寂しいです😭
【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」(スポニチアネックス)#Yahooニュースhttps://t.co/OqGqDwUD03
ボートやり始めた頃はイン屋の強豪選手やったわねぇ。思い出すわ
— ハヒン (@dlmxASCpHK21nW7) January 15, 2025
【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」(スポニチアネックス) – Yahoo!ニュース https://t.co/px1sDLMLz8
倉谷ヒゲも引退か〜
— 浪花αマクリ屋 (@okashi0813) January 15, 2025
自分がボートやりだした時にバリバリやった選手がどんどん引退する。寂しい気持ちです。
【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」(スポニチアネックス)#Yahooニュースhttps://t.co/yudA5pux4H
この2年ほど成績下がる一方だったからそろそろかなあと思ってたけど。
— おこめ (@MattKogan072) January 15, 2025
引退後は立山さんみたいに予想トークで出てくれんかな。
【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」 https://t.co/hdRijAjknj
【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」(スポニチアネックス)#Yahooニュースhttps://t.co/srtFy71Em1
— とんぬらさん(ニセヶ瀬隆弥)⚡️ (@may525t) January 15, 2025
あんなとこでモンキーする事あるかい!
と叱咤した野中和夫の愛情
倉谷好きやったよ。
買いやすい選手やった。
【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」(スポニチアネックス)#Yahooニュースhttps://t.co/srtFy71Em1
— とんぬらさん(ニセヶ瀬隆弥)⚡️ (@may525t) January 15, 2025
あんなとこでモンキーする事あるかい!
と叱咤した野中和夫の愛情
倉谷好きやったよ。
買いやすい選手やった。
お疲れ様でした🙇
— まさのん (@masanonn0222) January 14, 2025
後は娘に頑張ってもらいましょう🙇
【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」(スポニチアネックス)#Yahooニュースhttps://t.co/VDRgKCzKpd
【ボートレース】“ガッツ倉谷”倉谷和信 現役引退「うれしいことも悔しいこともあったけど、楽しかった」(スポニチアネックス) https://t.co/nYCcjn8LXi
— ベイグルス船長 (@baygleships) January 14, 2025
あとは娘に夢を託す形ですね
おつかれさまでした
まとめ
倉谷 和信選手、デビューから約37年7か月もの長きにわたってのご活躍、本当にお疲れさまでした。
素晴らしい活躍とボートレースの楽しみをたくさんのファンに提供し、何よりも多くのファンから愛された選手ということがよく伝わってきました。
残念ながら、SG競争で1号艇からの優勝・載冠はかないませんでしたが、ボートレースの人気を長年支え続けた選手ということがよくわかりました。
倉谷 和信選手の第二の人生が健康で幸多きものとなりますよう、心よりお祈りいたしております。
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